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 先日、仲間達と親しく会合を持った時のことです。
 ある一人が、こう切り出してきました。
「音の3要素のうち、皆さんはどれを一番大事にするかね?」
 皆、口々に言い合いますが、そのうちに、
「3要素の中には含まれていないが、3要素それぞれに大きな影響を及ぼす、4つめの要素がある」
 という話になりました。
「4つ目の要素?何だそりゃ」
「距離です」
「距離?」
「うん、距離。」
 以前、この連載でもお話しましたが、例えば森へ行って、森の奥から聞こえてくる鳥の声に耳をそばだててみましょう。
 それは、確かに鳥の声を聞く、という行為であって、聞いている人もそう自覚しているのですが、実はここに、鳥の声を聞くと同時に「森の深さを味わう」という行為が同時に無意識に行われている訳です。
 音源としての鳥と、その声を聞く人との間には何があるでしょう。
 空気。空気の中の湿気としての水分。森の中の様々な生き物や、森の中を抜けていく風。スタジオの中や、舞台の上とは訳が違います。
 想像すれば途方もない夥しい「いろんなもの」が、鳥と人との間にある訳です。森の深さを味わうということは、こういった途方もない夥しい「いろんなもの」に想いを馳せる楽しみ、そこに立つ自分というものを思わず見つめるということが、鳥の声を聞く、森の深さを味わうという行為に潜んでいる訳です。
 遠くの音を聞くということはまた、「耳をそばだてる」という、音に対して能動的な行為を伴います。
 私達は普段、聞くという行為に対し無意識です。それが、意識的に行われるのがこの「耳をそばだてる」ということです。
 かつて日本が静かで美しい国だったころ、「耳をそばだてる」という行為が日常的だったからこそ、風物や季節の音を愛し、それが芝居の効果音に活かされ、音に様々な情感を込めあって来ました。 
 現在の日本は昔とは比べるべくもない程、音が氾濫し、濁流のように音楽が溢れていますが、「音が豊かになった」と感じる人は少ないでしょう。音に蹂躙されているだけで、「耳をそばだてる」ことを忘れてしまった国になっています。
 私達が生きていく上で、遠くの音(これを単にOFFの音とくくってしまって良いものかどうか疑問ですが)はこれだけ私達に働きかけ、影響を与えているのですが、音響の現場では、ONの音を小さく再生してOFFに仕立てるだけだったり、何でもONに仕上げたりONに聞かせようとしたりするだけのような気がします。
 舞台で効果音をお客様に聞いて頂くには、遠くの効果音は、舞台の奥のスピーカから、もしくは客席に対してそっぽを向いたスピーカから再生して、音源とお客様の間に、疑似的な距離を作るのが一般的です。
 劇場・ホールのスピーカシステムの設備もそれに沿って作られている訳ですが、これはかなり有効ではありますが疑似は疑似、ヴァーチャルな訳で、「何とか画期的な良い方法はないものか」と、公演の度に試行錯誤を繰り返しています。
 完パケのサウンドドラマでは、私が学生の時に師事致しました、元NHKの西沢実先生の制作された作品「架空実況中継・関ヶ原」を初めて聴いた時の衝撃は忘れられません。
 この作品は、ラジオドラマ黎明期に西沢先生が、NHKのラジオの第1と第2の両方の電波を使用してステレオ放送を行ったもので、リスナーは2台のラジオを左右に置いてNHK第1とNHK第2を受信すればステレオで聴ける、というものでした。
 その作品での臨場感たるやモノ凄いものでした。
 遠くの音、近くの音の絵の様なコントラスト。音質にこそ現在との技術の差を感じますが、それが何程にも音の演出の妨げになるものではありませんでした。いや、現在において、このような音の演出が出来る人を探すほうが難しいでしょう。正に「演出が技術を凌駕する」瞬間です。
 その遠くの音にしても、その遠くからの合戦の音を作り込むことで、戦争に対する底の見えないような恐怖感、人の心の奥底の闇を音で描く、という、演出のコンセプトが1本ビシィッと入っていればこその、単なる奇をてらったものに留まらない、すばらしい音響演出になっていました。
 正直な話、自分がサウンドドラマを制作する時に、その制作中のスタジオで、西沢先生の作品の影響を受けているなと実感することが少なからずあります。
 耳に勝手に飛び込んでくる「聞こえてくる音」の向こう側の、聞こうとしなければ聞こえない音。
 そこに、私達が忘れている私達がいます。


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