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 昔、私の脚本の先生が、こういう事をおっしゃいました。
「みんな、どうして人を殺さなければドラマが作れないんだろう。話を盛り上げるためという理由で、例え作品の中であっても、人の命を奪ったりしては絶対にいけない。人の命というものは、そんなに軽々しいものではない。」
 その先生は特に、子供を対象とした作品について、それを憂いていて、かの名作「サンダーバード」を題材に、悪人さえも助け、一人も人が死ななくても、シリーズ化ドラマの制作は可能であるし、名作だって生まれると示唆しました。

 映画「ダーティーハリ−5」の中で、ある死亡事故があり、悲しみにくれる遺族を報道カメラが神輿の様にモミクチャにし、主人公のハリ−刑事が割って入って、「人の悲しみを撮るな!」とカメラを奪って投げ捨て、警察に猛抗議が殺到して謹慎させられる、というのがストーリー展開の冒頭になっています。その、「人の悲しみを撮るな」という短く簡素な一言が、何故かいつまでも忘れられません。

 こういう話を、「ドラマが視聴者に与える悪影響」だなどと、つまんない話題に持って行くつもりは、毛頭ありません。

 今回、「悲しみの行方」とタイトルを付けさせて頂きましたが、人を見つめてドラマを制作しようとする以上、人が人である限りは、死は厳粛な不可避の問題として、どうしようもなく立ち塞がって来ます。

 それ自体が、人間の持つ根本的な悲しみ、という捉え方もありましょう。また、その時によって、死は、出来事であったり、運命であったり、告発にも、救済ですらあり得ます。

 かつて、シェイクスピアの世界では、一人の死が国家の死を象徴すらしました。ドラマはやがて、近現代になるにつれ、歴史的叙事詩から個の内面を見つめるものへとズームしていきますが、(それは帝国主義制の崩壊とリンクしている訳ですが)殊に今世紀に入ってからは、個を見つめれば見つめる程、死というものから目を背ける訳には行かなくなりました。それは、この20世紀が、歴史上かつてないほどの大量殺戮の100年間であり、未だかつて、100年間の間に、これ程多くの人が死んだ、それも、病疫や災害ではなく、同じ人間の手によって死んで行ったという世紀は無かったからです。20世紀は、未曾有の死者を見送りました。個を見つめればその死は今世紀を浮きぼりにする、という、甚だ皮肉な様相を呈してしまいます。

 これを以て「20世紀とは死の世紀であった」と言う脚本家もおります。しかしここで、再び「現代の作品における死の捉え方」というスタンスから、個の、死に向かい合った時の根本的悲しみというものを見つめ直すと、個にとって喩え様もない悲劇である筈の死は、あまりにも、そこかしこに有り触れ過ぎていて、個を描こうとしながらも世相を一撫でするような作品ばかりが溢れてしまい、個の、死に向かい合った時の根本的悲しみがボヤけてしまって伝わらない、という、皮肉な状況になってしまっています。

 自分にとって、大切な人の死、そして誰かの可哀相な死は、喩え様もない悲劇です。しかしその悲劇は、一滴の涙であって、そんな悲劇の涙が溢れ返って、濁流の様にゴウゴウと音を立てて目の前を流れて行くのが現代という時代です。だからといって、時代の流行や世相に振り回されることなく、人間の持つ、人間本来の悲しみの行方を彷徨わせてしまうことのないよう、一粒の涙に誠実でありたい、という、自分と、人に、誠実でありつづける努力が、ドラマ制作や脚本の執筆に必要なことではないのかな、と考えています

 さて、私はスタジオでは音のドラマの脚本家でありディレクターであって、一方、舞台では、芝居やミュージカル、オペラのデザインを手掛ける音響演出家であります。先に述べた様に、自分と、人間に誠実であろうとするならば、どうやってこの悲しみを、自分の携わる「音」で伝えるか、という、つまりは「踏んばりどころ」があります。また、脚本の執筆の時点で、今書き進めている悲劇の部分は、作品のテーマに、どうコミットしているのか、単なる「盛り上げ」のための「おかず」のために、悲劇を用意し、人の悲しみを、弄んではいないか、自問自答する作業を繰り返します。

 舞台公演では、既に脚本があり、演出家も別にいる訳ですから、私の仕事は、物語の中の音を創造し、操ることです。筋立ての中に、死による悲劇があると、やはり音響演出は演出家や役者と同じく、最終的には自分自身をさらけ出す仕事ですから、デザイナー毎の死生観が浮き彫りにされてしまいます。

 よく、そういうシーンで賛美歌をリクエストされますが、私はキリスト教徒のはしくれなので、少々抵抗がありますし、「アメ−ジング・グレース」は確かに名曲ですが、あんまり安易に使用されているのをみると、「意味分かってんのかな」と首を傾げたくなる時もあります。

 悲しみはいつも、濡れた綿のように冷たい。

 この肌触りを忘れずに、死を取り扱うことは即ち、人の命の尊厳を表現する提示方法の一つという厳粛さを、自らに律し続けていたいと思います。


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