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 忘れられないハーモニーがあります。

 でもそれは、楽器でもなく音楽でもありません。

 にもかかわらずその音は、私が今までに聞いたどの音楽よりも、どんな楽器よりも、強く私の心を震わせ、そしてこの思いはおそらく一生消えずに残るでしょう。

 あれは1993年の秋のことでした。

 私は鈴鹿サーキットにて、F1グランプリ日本戦の観戦に来ていました。

 ふとした僥倖から、当時首位を独走するウィリアムズ・ルノーのパドックパスを手に入れて陣取り、おまけにピットパスと、グリッドに出られるオフィシャルパスまでぶら下げて、予選第1日目から声を嗄らして声援を送っていた時のことです。

 タイム・トライアルの真っ最中。

 最終コーナーを立ち上がって来たアイルトン・セナ操縦するマクラーレン・フォードがスピード全開、アクセルべた踏みで突っ込んできます。
 物凄い爆音。広い広いサーキットの空気全体がビリビリと振動します。
 テレビでは体験できない衝撃。F1マシンのパワーとは、これほどのモノだったのかと思い知らされます。

 そしてホームストレート。私の目の前を駆け抜ける瞬間、「ボン」とも「ドカン」とも「ドバン」とも表現しようのない、とてつもなく巨大な空気の塊がこちらに飛んできて私に体当たりをします。
 その時のセナのマシンは「ミ」の音でした。
 最終コーナーを立ち上がって「ミー・・・ィイイン」と走って来て、ドバンと空気の塊が飛んできて吹き飛ばされそうになって、音にドップラー効果がかかって、第1コーナーに突っ込んでいきます。

 十数秒ほど遅れて、今度はアラン・プロスト操縦するウィリアムズ・ルノーがやってきます。
 プロストのマシンは「ファ」の音でした。
 更に、プロストに遅れること数秒、今度はベルガーが操縦するフェラーリが疾走してきました。
 フェラーリは「ミ」や「ファ」よりも高い「シ」の音でした。
 その3台が立て続けに走り去ったあと、しばらく私は茫然としていました。
 「すごい・・・完璧にチューニングされたエンジンの音って、こんなに美しいものだったんだ・・・まるで楽器の様だ・・・」

 感動も束の間、コースを一周してきた3台が、今度は殆ど3台同時にホームストレートに突っ込み、吼えるようなエンジン音を上げて飛び込んで来たのです!

「ミー…ィイイイイイン!!」

「ファー…ァアアアアン!!」

「シー…ィイイイイイン!!」

 和音と呼ぶにはあまりに壮絶な、合奏というにはあまりに獰猛な、命を限りに咆哮をあげる鋼鉄のケダモノ。生きた管楽器の、予想もしなかった一期一会の演奏会。

 3台まとめて「ドン!!」と、ホームストレートの周辺の空気というか次元がずれて崩れたような衝撃。
 もうその時にはその3台は、遥か彼方の第1コーナーへ突っ込んで行って、遠くの方から「ミ」「ファ」「シ」が聞こえてきます。
 最早言葉もありません。
 あとにもさきにも、これほど私の心を揺さぶり、感動した「ミ」の音も「ファ」の音も「シ」の音もありません。

 またこの演奏は二度と再現の出来ない、まさに一期一会のものです。

 この世には、低い方は、最早、風の様にしか感じられない、音にならない低音から、高い方は、音として認識出来ないけどなんとなく髪の毛が逆立つような、異様な緊迫感を与える高音まで、様々な音があります。

 そして音楽は、その中の、真ん中あたりの極く一部の音域の中で、まるでダマスク織の様に、或いは、まるで曼陀羅のように、その限られた音域の中の音を編み上げ、織り上げ、紡ぎ上げていきます。

 それそのことには、喜んで心からの敬意と愛情を表し、長い歴史の中で人間が、築き上げた素晴らしい芸術だと思います。

 が、それとは別に、言わば五線譜の外側にある音に、私は耳をそばだて、興味と愛着を抱いてしまうのです。

 記録も再生も不可能な、再現を拒絶する、人智を越えた「偶然」「一期一会」の「音」をを操る神様に、私は深い畏敬を抱き、出来うるかぎりその瞬間に身を置いて、その御業を耳と体で感じたいと、切に願うのです。


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