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 劇場での携帯電話のトラブルが増えてきました。

 使用者の数が爆発的に増え、それに対しマナーを呼びかける活動も社会全般で随分と早くから行われてきましたが、一向に減る気配がなく、寧ろ増えてしまっているのは大変残念なことです。

 クラシック・コンサートで指揮者がタクトを振り上げた途端に客席で携帯電話が鳴りだした、とか。

 お芝居で、登場人物の恋人同士が黙って見つめ合い、そっと唇を寄せていく、まさに触れん、という時に、携帯電話が、しかもメロディーのベルでピーピララー。

 もう台無し。そのお客さんに舞台に上がってもらって、謝るか他のお客さんにお金を払うか、そこで一発、何か芸をやってもらうかしてほしいですね。

 問題を解決するのは簡単です。劇場内を外からの電波を遮断してしまう工事をしてしまえばいいのです。

 すでにそういう工事を施された劇場やホールもいくつか現れています。

 確かに劇場サイドはそれで問題解決ですが、それでいいんでしょうか?

 いえ、何も私は、「マナー改善の抜本的な方策を」なんて、ムズカシイ偉い話をする積りはありません。

 ただ、こう申し上げたいのです。

「スイッチをOFFにして、開放される喜びを味わいませんか?そして、生でしか体験できない劇場公演を、身体で体験することを味わいませんか?」と。

 アンプラグド、という言葉が一時期流行りました。
OFFにするスイッチは、アンプラグドにするものは、考えてみると、自分の回りを見渡してみると、結構いろいろありますね。
 放送技術の誌面でこんなことを申し上げるとお叱りを受けそうですが、テレビやラジオのスイッチを、試しに切ってみましょう。ついでに、電話やパソコン通信のコードも引っこ抜いちゃいましょう。

 沈黙が訪れます。

 この、沈黙、という音の、波打ち際の様な緊張感をはらんだ心地よさはどうでしょう。

 私の大切な本の一つに、ピカード、という人の書いた「沈黙の世界」という本があります。
そのイントロに、こういう一節があります。
「沈黙は、音がない状態ではない。
  沈黙という音がある状態をいうのだ。」

 この本についてはいずれ改めて語らせて頂く機会を頂戴するとして、訪れた沈黙の中で、沈黙を肌で感じ、耳で聞き、そうしていくと、体中をアドレナリンが駆け回り始める音が心の耳の奥で聞こえ始めます。
 体中の感覚という感覚が、総毛立つように息を吹き返し、鼓動は目を覚ましたように高らかに鳴ります。

さあ、ここで深呼吸をしてみましょう。

「私は人間という生身の生き物だ、野生の本能は失われてはいない、脳の奥深くに眠っているだけだ、ほら、深呼吸に合わせて、少しずつ、少しずつ目を覚まそうとしている。」と、身体の奥から声がするのが聞こえませんか?

 皮膚の感覚や、聴覚が、冴え冴えとしてくるのが感じられるでしょう?

 動物としての人間が、身を守り、敵と闘うための武器や防御の役割としての「感覚」が、戻ってきました。

 これが、人間のオリジナルです。私たち本来の、聴覚をはじめとする各感覚のコンディションです。
 この状態でもう一度、音楽を聴き、回りの音に耳を澄ましてみましょう。いかがですか?
 湖面の霧が晴れたように聞こえるでしょう!

 私は、アンプラグドとは、「生身に戻る」というふうに、自分勝手に解釈しています。

 情報化社会は人をどんどん鎧で覆い、覆われた中で人の本来の感覚はどんどん鈍感になっていきます。

 ですから、表現方法も「もっと激しく、もっと過激に」と要求されてしまうのです。どんどん鈍感になっていくのですから、また「もっと過激に」。イタチごっこです。
 このページで、今までに何回も、「情報化社会になると、自分の生身で体験する、ということが贅沢になり貴重になる。遊園地と劇場はその最たるものだ」ということを、何度もお話してきました。
 舞台表現は、だからこそ、映画やテレビが出てきても、廃れるどころかますます盛んになり、表現手段として、アルファでありオメガなのです。

 その舞台表現に触れるために訪れる劇場なのですから、携帯電話のスイッチを切るというのは、マナーではなく、自分をアンプラグドにして、鎧から解放し、

人間の本来の感覚のコンディションを取り戻すための、ちょっとした儀式だ、というふうに、思ってはもらえないでしょうか。

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