日本の歌舞伎や西洋のオーケストラ、オペラ等は、時代を経るにつれてどんどん規模が大きくなってきました。いや、そう言い切ってしまうのは乱暴かも知れません。というのは、都市人口の増加につれて劇場やホールが大きくなる必要があり、それに引きずられるようにして舞台の大きさもオーケストラの人数も大きくならざるを得なかった、という一面もあるからです。

 歌舞伎について言えば、皆さんもニュースなどで御存知の、「こんぴら歌舞伎」、四国の琴平にある、昔ながらの芝居小屋「金丸座」が往時の面影を残していると言われています。

 昔の芝居小屋の大きさを具体的に、と言っても、正確な数字が残っていないのが現状ですが、いい目安になる、面白い話が残っています。

 「伽羅先代萩」での床下の場、仁木弾正の、定式幕が引かれて花道に残り、鼠色の長上下で歩いて揚げ幕へ向かって引っ込む時、下座の合方が、4クサリ半、つまり4フレーズ半で引っ込む長さを、花道の長さの目安としたそうです。ここから、劇場全体のサイズを推定することが出来るそうです。面白いですね。

 オーケストラにしても、昔はサロンでの小規模の演奏形態でした。モーツァルトやベートーベンの曲は、編成が小さいと言われるのはそのためです。

 ショパンは、演奏会の度に手袋を新調しました。

 ショパンのグルーピーは、曲や演奏よりも、

「ショパン様は今日、どんな手袋を御召しでいらっしゃるのかしら」ということの方に夢中だったようです。

 黄色い歓声の中、溜息をつきながら「我慢、我慢。これもギャラの為だ」とピアノに向かうショパン。

 話がそれましたが、つまり、手袋がよく見える程度の広さで演奏会が行われていた訳です。

 話がそれついでに、オーケストラで、演奏者が着用する燕尾服は、18世紀の召使いの制服です。

 つまり昔はお抱えの演奏者達が、「それでは皆様、どうぞお聴き下さいませ」とやっていた訳ですね。

 昔の音楽・芸能に携わる人々の、苦労に釣り合わない待遇の悪さの中で、それでも情熱を捨てられずに、(捨てずに、とは敢えて申しません、現実との軋轢の中で、捨てちまおうか、と思ったことはきっと幾度もあったことでしょう、その苦しみの中で生まれた作品だからこそ敬意を表します)表現の場を求めます。

 表現の場、例えばそれは前述のサロン、若しくはホール、若しくは劇場です。いざ発表しようとすると、その準備の為にまた現実との闘いです。モーツァルトが親戚に、演奏会の会場のロウソク代を無心する手紙が残っています。

 ロウソク代、現代で言うところの電気代、照明代です。これがえらく値が張ったようで、そのおかげで、従来はステージも客席も明るくしていたのを、段々と舞台のみ明るくするようになりました。

 パトロンに養われていた頃の少人数の客数の為のサロンから、市民の為のホールへと場が移り、客数が多くなり、更に人口の増加に併せてホールは巨大化してきました。

 しかし、最後のハードルが待っています。

 それは、劇場やホールが、純粋に演目を楽しむ場所になったか、あるいは社交場としてのポジションを兼ねていたか、ということです。

 昔は観劇に飲食はつきものでした。それは日本も外国も同じです。

 日本では、舞台の上で何が行なわれようと飲み食べ騒ぎ、「コラ静かにしろ」「ナニ静かにしろだ、ワッシが口をワッシがきくのが勝手ダ、だまれと言うなら役者も黙ってスレばイイ」と、こんな有り様だったそうです。

 外国の劇場も同じで、金持ちは桟敷で飲み、食べ、賭事をし、舞台そっちのけで他の桟敷と服や宝石を競い合い、色事の場となっていました。平民や舞台好きは平土間で、それでも音楽そっちのけで、衣裳や舞台機構の仕掛けを見に来たのです。このへんは、大作家にして劇場のオーナー、劇作家でもあったA・デュマの名作「モンテ・クリスト伯」に、実に詳しく描写されていて、いかにデュマが、そういう手合の客層に腹を据えかねていたかが伝わって来て笑えます。

 劇場、ホールのスタイルが現在のようになったのは、飲食や社交の場が他に移り、純粋に公演そのものを楽しむようになってからだ、と考えると、つい最近のこととなります。作品の純度が上がる代りに娯楽の中心からはずれてしまい、結果として資金面で苦しい思いをする、というのは、めぐりめぐって昔のまま、というところが皮肉です。

 はあ〜あ、いつになったら楽になることやら。