3号連続の、音環境のお話の3回目です。

こんな恐ろしい話を聞きました。
第2次大戦後、イギリスでは紙おむつが採用されました。が、当時のものは現在とは比べ物にならない粗悪なもので、アメリカでは、製品の成熟を待つということで採用が見送られたそうです。
その紙おむつを使用した赤ちゃんが成長した70年代の、イギリスの若者の荒廃ぶりは皆さんもご承知のとおりです。情緒不安定を抱えた若者の根本には、開発途上の紙おむつによる不快感や排泄器官の炎症の経験があったのです。

 それと同じことが、70年代から登場してきたウオーキングステレオに起こっているということです。

 ウオーキングステレオが登場してきた時に、既に若者だった世代は、新しい刺激に興奮しました。が、問題は、そのあとの、生まれた時から既にウオーキングステレオが当たり前に存在していた世代です。

 音の専門家の皆さまには釈迦に説法の話ですが、低音は聴くものではなく身体で振動を感じるものです。それを、ウオーキングステレオは、無理やりヘッドホンで低音の迫力を耳に、またはバイブ機能で頭がい骨にダイレクトに叩き付けます。

 これを成長過程の子供が1日2時間、定期的に続けていたらどうなるか、お知り合いの耳鼻科、小児科、児童心理学者に聴いてみて下さい。

 深い心理的な話を割愛したとしても、単純に聴覚障害の問題として、耳から脳への聴覚細胞は、140デシベルを受けると瞬時に破壊されてしまうそうです。また、110デシベルを15分間受けると同じく破壊されるそうです。

 しかるにウオーキングステレオは、最大90デシベルまで耳に叩き込みます。これを毎日2時間続けていたらどうなるでしょう。

 若年性の難聴が激増していることは周知の事実ですが、それ以上に、「音は勝手に音の方から無理やり耳に飛び込んでくるものだ」と身体がインプリンティングされてしまったら、世の中はどうなってしまうのでしょう。

 耳をそばだてる、耳をすますという行為を人は忘れかけています。

 音は耳だけで聞くだけのものではなく、身体全体で浴び、感じるものだということを、迫力大音量の宣伝にしか謳われなくなっています。

 音には、近くの音、遠くの音があって、その距離と方向は音環境の重要な要素だということが忘れられ始めています。

 森林浴のように、シャワーのように、柔らかく美しく優しい遠くの小さな音に耳をすまし浴びることの快感を、現代の子供たちのどのくらいが知っているのでしょう。

 耳をすます、という行為を忘れ、無意識に、ただ耳に飛び込んでくる音を飛び込まれるがままに受け止めるだけ、という受動的な状態は、そのまま意識の在り方でもあります。言われたことを、そのまま記憶の引きだしの中に放り込むだけ。自分なりに解釈することも、疑うことも、まして音を「味わう」なんてこともしない。

 情報は決して全てを伝えはしないのに、情報は幾らでも嘘をつくのに、耳をすますことを忘れた子供たちが、自分からは働きかけず、音が、情報が、勝手に飛び込んでくるのを待って飛び込むがままにさせて、鵜呑みにしていく。

 だから知識は豊富にあるが自我がない。その豊富な知識は、豊富ではあるがそれら一つ一つを自分で検証したものではない。

「だって先生がそう言ってたもん」

「だってテレビでそう言ってたよ」
「だってあの人がそうだって言うから」
「だって雑誌にそう書いてあったもんね」

 最早、彼等子供たちは、人間の、生き物としての、ケダモノとしての最後の砦と言うべき、体験の蓄積によって作られる「ケダモノのカン」は作られないし、作る術を失ってしまったのです。

 話が強引だと思われますか? 

 腕ずくのこじつけ論だと思われますか?

 論法が飛躍しすぎだと思われますか?

 あなたがそう思われたのだとしたなら、そう思われた最初の突端は何ですか?

 拙文を読んでいて、あなたにとってなんだか引っ掛かる、この妙な、さしてひどくもないがでも気になる肌触りの悪さはなんだろう、と、違和感を感じるところから、あなたは、そして人は、「うまく言えないがなんか違うような気がする」と感じ始める、それが、体験の蓄積からくる「ケダモノのカン」です。

 そう、あなたにはそれがある。体験が蓄積され、それによって築かれた、人間の、生き物としての「ケダモノのカン」が創られているということです。

 私が問題にしてるのは、現代の音環境は、子供にとって、それが形成される環境ではなくなってしまっている、ということです。

 書と街を捨てて森に行こう、そして耳をすまそう。