3回連続の音環境のお話の2回目です。

前回、駅のアナウンスについて、「世の中に大人がいなくなったからだ」と申し上げました。
本来、乗客が自分で注意してしかるべき、今更駆け込み乗車をするなとか、白線の内側に下がれとか、指摘されては恥と感ずるべきことは、大人なんだから言われなくても自分の責任において気をつける、だからそんなアナウンスは必要ない、というのが本来の在り方、大人のいる国のやり方でしょう。
アナウンスを流す方だって、心底心配して「傘のお忘れ物が増えております」だの「整列乗車にご協力下さい」だの言ってる訳ではなく、いざトラブルが起きたときに、「こちらはちゃんと注意したからね、それでトラブってもワシャ知らんよ」ということでしょう。
だから、「いいや聞こえなかった」と言われないように、これでもかとあのような大音量でアナウンスするのでしょう。
来日した海外の劇団、バレエ、オーケストラのメンバーに、頼まれて東京見物に付き合って出掛けると、決まって駅のホームでみんな顔をしかめて耳をふさいで「オー、テリブル!」と、うるさがります。
その度恥ずかしい思いをします。

同じことはデパートやスーパーにも言えるでしょう。
エスカレーターは真ん中に乗れだの、エレベーターは戸袋に手を挟まれるなだの、そんなにお客を子供扱いして「バカにしてんのか」と苦情は来ないんでしょうか。
このどうにも理解できない、「私達はこんなにだらしがなくって自らを律することも出来ない、そうなろうと努力する気もないんだから、そっちでしっかり面倒見てね」という怠慢な客への、せめてもの防御策が、現在の騒音公害の根本でしょう。
その結果、街の暗騒音はとてつもなく大きくなり、子供は静寂を怖がります。静寂の中で「耳をそばだてる」ことを知らない、出来ない子供になっていくのです。そういう子供が「自然と触れ合おう」などと言われてキャンプにでも出掛けて、どうしてると思いますか?
森の中でウオーキングステレオ聴いてんです。
ボリュームがんがん大きくして。おかげで回りの人達は、鳥の声や、葉の擦れる音、それになんとも言えない、森の息吹としかいいようのないささやきのような、音とも気配ともつかないあの空気の中で、ウオーキングステレオから漏れてくるシャカシャカという音を、聴かされる羽目になるのです。

回りの迷惑の話は置いておくとして、子供の、聴くという行為と感性の崩壊は、ここまで進んでいるのです。
耳をそばだてる、という行為が何故大切なのでしょう。お分かりになりますか?

普段、聴くという行為に対し無意識になっているものを、意図的に任意の特定の音を注意して聴いてみるということは、聴くということの感性を磨くだけにはとどまりません。
音の出た「音源」と耳との間には何があるでしょう。そう、空間です。耳をそばだてる、ということは、音と耳との間にある空間に想いを馳せることになるのです。

例えば森の中で、どこかでカッコウが鳴いています。
「あ、カッコウが鳴いている」と耳をそばだてます。
それは、カッコウの鳴き声を探す行為です。ですが、それをすることで、森の中の他のさまざまな音を聴き、その森の音の響きを知り、森の深さを味わうことになります。
耳をそばだてる、というのは、そういうことなのです。

テレビやラジオで流される音は、基本的にオンの音です。オフの音も、時にはオンの音をレベルを下げて作ったものだったりします。マイクと音源の間の「距離」が収録されていないオフの音です。
テレビやラジオの特性の事だけ考えれば、それはそういうものですし、仕方がないでしょう。
電波のダイナミックレンジでは、芭蕉の「静けさや 岩に沁み入る 蝉の声」は再現できません。
それをやったらオンエアでは、無音にしか聞こえないでしょう。
放送事故になっていまいます。

問題は、こういう、電波を通じて提供された音世界の感覚が、世の中の人々の感覚になってしまっているということです。
サラウンドが流行るというのは、疑似的に作られたオフの音を、疑似でもいいからと人々の感性が求めているからなのでしょうか。それならまだ救いがありますが、オフの音、音源と耳の間に距離、空間があることを忘れてしまった人間が、疑似的オフ音であるサラウンドを、新鮮な、物珍しい音として飛び付いているのだったら、もう、音の感性の退化もここまできたか、という感じです。

無意識のうちに、音源にマイクを近付けられるだけ近付けて、オンマイクでクリアに録る習性がついてしまった皆さん。
音の「距離」を楽しむことを忘れてしまってませんか?