昔、まだ私が若い頃、師匠からこんな話をしてもらいました。

「音に関する形容詞をあげてごらん。大きな音、小さい音、明るい音、暗い音、うるさい、静か、硬い音、柔らかい音。沢山あるだろう。
 では次に、その中から、聴覚オリジナルの形容詞をあげてごらん。幾つある?」
 確かに、言われてみると、聴覚のオリジナルの形容詞は、うるさい、静か、位しか見当たりません。他の殆どは、視覚からの借り物の形容詞です。
「な。ことほどさように聴覚というのはだな、無意識の感覚であり、いわく言い難き感覚なんだ。視覚は確認の感覚だ。聴覚は感情や無意識の部分に働き掛ける感覚なんだよ。いきなり視力を奪われても人間は生きていくことが出来るが、聴力を奪われたら気が狂ってしまうと言われているんだからな。」

 師匠としては、自分たちの、そして私が飛び込んで来たこの音の世界の、重要さと意義の重さを説いて下さったんでしょうが、不肖の弟子といたしましては、只々言葉っつらの話の面白さに引き込まれ、勝手に想いを馳せてしまうのです。

 赤ん坊は生まれてすぐは目が見えないそうです。見えるようになっても生後1年未満は、近眼の状態なんだそうです。一方聴覚はと言えば、お母さんのお腹の中にいるころからしっかり聞こえていて、しかも聞いた音は記憶の奥底で殆ど一生憶えているというから、スゴイというか恐ろしくさえ感じます。

 そしてそれがその子供の性格に多大な影響を与えるとしたら、私たちはもうこれ以上黙って手をこまねいてはいられません。

 音は、空気の波動であり振動です。確かにそうです。しかし同時に音はエネルギーであり、パッションであり、愛であることもまた厳然たる揺るがせない事実です。

 子供たちを取り巻く音環境、そしてこの国の、この社会の音環境が今どうなっているのか、最早無関心でいることは罪悪に等しいでしょう。

 ある病院では、出産時にあたって聞きたい音楽を流してくれるそうです。母親は前もってテープか CDで音楽を医師に提出しておくのです。
 ある母親は、アヴェマリアばかりが収録されているCDをかけて欲しいと思い、それを医師に提出しました。そしてその音楽の流れる中で、男の子を出産したのです。
 赤ん坊は現在1才半です。無心に遊んでいるところへ、ふいにそのアヴェマリアのCDを流すと、「あれっ?」という顔をして遊ぶのをやめ、その音楽が聞こえて来る方を、一生懸命探して歩き回り始めるそうです。
他の曲では示さない反応です。
この話を聞いて、今、部屋のテレビの音が気にならない親はいないでしょう。エアコンのゴーという音がどうでもいいと思う親もいないでしょう。そして次に自分たちの家の回りは、自分たちの住んでいる町は、道路は、駅は、スーパーやデパートは、と、次々に気になり始めます。

 そして愕然とするのです。

 この国は、この町は、絶望的なまでにズタズタの音環境なんだ、ということに。

 それが子供の心を荒廃させ、すさませ、ささくれ立たせ、いつしか凶悪な少年犯罪に行き着いてしまうとしたら。

 キーワードになるものはいくつかあります。

 一つは、「耳をそばだてる」ということがなくなってきたこと。これは、人が音に対して能動的になる機会が減り、受け身にばかりなってしまうということです。その結果、聴覚に対する感性は鈍くなっていきます。

 二つめは「ウオーキングステレオ」です。そして3つめが「町の中のアナウンス公害」です。

 かつて日本は「静かな美しい国」でした。

 それがどうしてこんな見るも無残な有り様になってしまったのでしょう。

 その答えの一つが「駅」にあります。

 東京駅のモデルとなったオランダ・アムステルダム中央駅を訪れると、その静謐さに驚かされます。
 アナウンスが流れていた記憶が殆どありません。発車のブザーが、控えめに、ごくごく控えめに短く流れると、列車は滑るように動き始めます。
 日本とのこの彼我の差はどこからくるのでしょう。
 結局この国には「大人」がいなくなったということです。
 閉まるドアに注意して、駆け込み乗車をせず、白線の内側に並んで待つのが大人で、自分の責任において大人だと自負し、大人料金を払って乗車するのです。
 大人になりきれていない人々が、自分の未熟さを棚上げして事故の責任を列車に押し付け、そうはさせじと鉄道側が「言うことは言ったからね」というのがあのアナウンスです。
 大人がきちんと大人になれば、駅の静寂は取り戻す事が出来るのです。

 この音環境の話、3号ぶち抜きでお送り致します。