音の絵本、というものを作っています。

 東京郊外の主婦の方々が作っているサークルで、目の見えない子供たちに、絵本を自分たちで朗読してテープに録音し配ろうという活動がありまして、手伝ってもらえないか、と頼まれたのがそもそもの発端でした。

 私は元々、ラジオドラマの脚本、演出、制作からこの世界に入ってきたので、お安い御用、と気軽に引き受けてしまいました。

 ところが、いざスタートすると、これは実に大変なことだったのです。

 目の見えない子供だけでなく、病院に長期入院している子供たちにも、配ろう、ということになりました。

 病院は午後9時になると消灯になります。それ以降はテレビも見ることが出来ない病院が多いようです。

 手元灯で本を読んだり、イヤホンで音楽を聴いたりして、眠れない自分を持て余す、というのは、入院した経験のある方ならご理解頂けるでしょう。

 こうなると、話は単に、テープを聴くことで、読むことの代用行為にする、ということでは済まなくなります。ただ朗読するだけでなく、ラジオドラマ仕立てにして、「音の作品」として、読書とは全く別の行為として楽しもう、ということになりました。

 ここで議論になります。音のドラマを聴く、というのは、ただ単に本を読んだり映像のドラマを見たりすることの代用行為なのか?そうでないならそこに何があるのか?

 そうです!決して代用行為ではありません。

 「音を聴く。そして想像する。想像で結んだイメージの映像の中に自分の心を遊ばせる。

人間の、人間ならではの、とても豊かな遊びだ。」

 私がこの世界に入ってきた時に大変お世話になった、この世界の偉大な先人の言葉です。

 その方はこうおっしゃいました。

 「音のドラマで、波打ち際の音が聞こえ、遠くで船の汽笛が鳴る。砂浜を歩く男の足音がする。美しい女の声で、もう私のことは忘れてね、と台詞が入る。

 これを聞いている人にとっては、この浜は、その人にとっての思い出のあの海で、船はいつかみたあの美しい船で、歩いている男は確かに自分で、その美しい女性は、あの日の、忘れ得ぬあの女性になるんだ。そして、甘く、苦い想いが込み上げてくる。

これがね、映像のドラマだったら、行ったこともない不細工な波打ち際で、小汚い船が映り、自分とは似ても似付かない男優が浜辺を歩き、台詞を言っている女優がだね、全然自分の好みじゃない女優だったら、あなたはそれを見て、どう思いますかっての。」

 そうなのです。視覚は確認の感覚であり、聴覚は感情の感覚と呼ばれています。そしてそれは、自分の体験の蓄積によって作られる「感覚の記憶」を大いに刺激し、たった一つの音で時代や季節、時間、場所ばかりか気持ちまで引きだしてしまうのです。

 こんな話は皆さまには今更、釈迦に説法でしょう。

 ではこれを、子供を相手にするとどうなるのでしょう。じつはこれが、冒頭で「大変だ」と申し上げた理由になるのです。

 いうまでもなく子供は、「感覚の記憶」を形成するだけの「体験の蓄積」がされていません。日々、体験を猛烈なスピードで積み重ねている最中です。

 そういう子供に「うっそうとした森に入って行くと、おーっきなクマが現れました!」と聴かせても、うっそうとした森を見たことがない子は想像が出来ません。

 クマを見たことのない子はそのクマがどのくらい大きいのか、どんな顔をしていてどんな色なのか、耳で聞いた音が感覚の記憶を刺激しようとして脳の中の「体験の蓄積の部屋」に入って、刺激するものがないことに気が付いた状態です。

 子供はその時どうするでしょう。

 そうです!そこで猛烈な「体験の欲求」の衝動が沸くのです。そして言います「お母さん、クマって何?」

 これが何故映像ではいけないのでしょうか。

 映像によって得られるものは「情報」です。「体験」ではありません。映像はいくらでも嘘をつくことが出来ます。クマを見たことのない子供にライオンの映像を見せて「これがクマだ」と言えば、信じてしまうでしょう。

 情報は体験を越えることは絶対に出来ません。

 クマがどれだけくさいか、クマの毛がどんなにゴワゴワしているかを、伝えることはできません。

 そして、情報はいくらでも嘘をつくことが出来ます。その嘘を見破ることが出来るのは、体験の蓄積からくる、人間の、生き物としての、ケダモノとしての、ある種の「カン(勘)」です。

 「うまく言えないけど、こりゃ嘘くさいぞ、うさんくさいぞ」と、情報の嘘を見破ることが出来るのです。

 オウム事件の時、「あんな高学歴の人達が、誰だって怪しいと思うようなことに何でああも簡単に騙されたのか」と言われましたが、簡単なことです。小さいころから高学歴目指して受験地獄という情報の海に溺れ、情報の嘘を見破れる体験を積んでなかっただけのことです。

 国家の存亡を賭けて、ヤンチャ、腕白よ復活せよ!