芝居の効果音を創る人たちが、今嘆いています。
 音が伝わらなくなってきた、と言うのです。
 どういうことでしょう。

 例えば、夏の蝉時雨。アブラゼミの鳴き声は、背中にジトーッと沸いてくる汗を私たちに思い出させ、夏の暑さを感じさせてくれます。

 このアブラゼミは関東が舞台の芝居のもので、これが関西という設定ならクマゼミ、と教わりました。

 私も幼少の頃、関西に長く住んでいましたが、確かにクマゼミをよく見かけ、よく捕まえ、その鳴き声もよく覚えています。

 が、別に関西にアブラゼミがいない訳ではありません。アブラゼミもよく捕りました。

 しかし、関東でクマゼミを見ることはまず経験がありません。クマゼミのシュワシュワシュワというあの鳴き声を聞くと、私の思い出の中では、瀬戸内海に、或いは六甲山に、入道雲が、クマゼミの鳴き声に合わせて、シュワシュワと沸き上がるのです。

 私のこういう「感覚の記憶」は、関西の人には多くあるのでしょう。だからこそ、関西でもアブラゼミが沢山鳴くのにも関らず、関西が舞台設定になっている場合はクマゼミを使うのでしょう。

 関東では、クマゼミの鳴き声に馴染みがないために、

クマゼミが鳴くことで、「ああ、夏だなあ」というのと同時に「ああ、関西だ、関西の夏だ」と、感覚の記憶に訴えることが出来るのでしょう。

 ところが最近、「最近の若い世代には、自然音や風物の音が通じない」と嘆く声をよく聞きます。

 そうでしょうか?

 「今の時代の人は、自然音や風物音に接する機会がないのだ」とも言われます。

 そうでしょうか?

 風物の音というのは時代と共に移ろうものです。

 豆腐売りのラッパは江戸時代にはありませんでした。

 蓄音機は明治にはありませんでした。

 それが登場した時にはブランニュー、その時代を生きた人たちには「感覚の記憶」を刺激する重要な要素、そして後年、郷愁としてその時代のリアリティを伝えてくれるが風物の音でしょう。

 若い世代に「夏をイメージするものは?」と訊くと、歩いていて、家や店から聞こえてくる高校野球の中継音、と答えます。

 蝉や蛙の鳴き声という答えが返ってこないことは確かに問題です。でも、今は時代のスピードが速すぎて、感覚の記憶をストックする敏感な年齢の時に、蝉捕りも蛙釣りもさせてもらえずにみんな塾に通っているんです。エアコンの普及で、うだるような暑さの「うだるような」、骨身に染みる寒さの「骨身に染みる」という感覚がリアリティを持てなくなってきているのですから、季節を感じさせる自然音が成立しづらくなっているのは確かです。

 彼らはそんな生活の中でも、日々聞き慣れる高校野球の中継音に季節を感じているんです。

 また、昔の大型コンピュータのゴーという音や、ドッドッドッドッという喧しいプリントの音を聞くと、古さや懐かしさを感じるそうです。私達の世代にとってのコンピュータの音と言えばフォーン、カリカリカリ…という音なのですが、この既に郷愁を感じる古い大型コンピュータの音がブランニューだった時代から、既に風鈴売りや金魚売り、蓄音機、豆腐屋ラッパは風物音としての姿を消しかかっていたのですから、時代は確実に移ろい、風物音はバトンタッチをし続けているのです。

 立派な風物音だと思います。風鈴売りや金魚売りに取って代わる、現代を代表する風物音になったのでしょう。いつか、もし、高校野球というものがなくなったとしたら、高校野球を知る世代にとっては、郷愁と共に聞かれる音になるのでしょう。ちょうど現代の風鈴売りや金魚売りの声のように。

 でもだからといって、現代が必ずしもすべて昔よりひどい時代というわけではないでしょう。江戸時代の人だって現代とは異質の「生きづらさ」を感じてたでしょうし、戦中の軍歌に郷愁を感じても、あの時代に戻りたいという人はいないでしょう。

 こうやって、ブランニューがだんだんと次のブランニューに取って代わって行くのが風物の宿命で、そこに時代の変遷を我々は感じ取ります。かつての風物音が通じなくなったことを嘆くのではなく、何故通じなくなったのか、時代はどう変わったのかを我々は考察するべきでしょう。

 風物に善し悪しがあるのではなく、その時代のありようをあるがままに伝えるのが風物の音でしょう。

 現代を代表する、現代を後世に伝える、「現代の風物音」を、私たちは今、創り残しています。