音楽と映像、音のコラージュ、アロマによる、女性の為のリラクゼーションコンサート、というのがあります。

 音楽は、ピアノの弾き語りにガットギター、アルパという名前のインディアンハープ。それぞれがソロで演奏したり、アンサンブルを組んだりします。

 映像は、夜の月明かりの波面から、満月、雲間の月、そして夜明け、緑の木々、せせらぎと続いて、いつしか海、そして海底へと移っていきます。

 音のコラージュは、映像や音楽に合わせて、初めはイルカの鳴き声や鳥の声、それから段々と月が凍る音、海底のような人の鼓動のような音、海の底を流れるような人の身体の中の血液が流れるような音など、人間の無意識下に働き掛けるような音を、コラージュのように、空間に散りばめていきます。

 アロマは、すべて薬草より抽出された成分を使い、香りの好みとは関りなしに浴びているだけで身体に良いものを使い、映像や曲に合わせて、香りを変えていきます。

 なかなかこういう、音やにおい等、形にならないものに価値を認め、お金を払うという意識がこの国では発達していないので、どれほどお客さんが来てくれて、どれほど理解し、喜んで頂けるのか、開演するまでとても不安でしたが、いざ蓋を開けてみると、会場一杯の満員御礼で、音楽や音、映像、アロマに喜んで身を委ね、最後は割れんばかりの大拍手で、すばらしい成功裏に終わりました。

 こういった、リラクゼーションを目的としたコンサートが女性に支持される、というのは、とりもなおさず女性が日々ストレスを感じ、悩み苦しんでいるということでしょう。

 働く女性もさることながら、小さい子供をかかえたお母さん達も、大勢いらっしゃいました。

 託児室を用意していたので、一時、子供から開放されて、リラックスしてもらえました。

 終演後に集められたアンケートには、殆どが、「とても良かった」「こんな時間が欲しかった」という声ばかりでしたが、中には、「リラクゼーションなんて人から押し付けられるものじゃないと思ってたけど、来てみたら本当に良かった。」というのもありました。

 確かに本当は、わざわざこうやって自分を癒し、心を開放してリラックスする、なんてことを、人の力を借りずにやるのが本来の姿でしょう。

 しかし、それが出来ない、それが見えてこない、というのが、現代社会の本当に病んでいる部分なのかもしれません。

 こんな社会に生きる同じ人間として、私のような、「音の演出」を生業とするものは、どのようなスタンスに立ち、どう音と向き合えばいいのでしょう。

 音の演出は、いかに「音で感動してもらう」そして

「音で楽しんでもらう」、ということです。

 それはすなわち「音で豊かになる」ことであり、

「音で幸せになる」ことであります。

 これは、他の動物では決して有りえない、人間ならではの幸せです。

 ではその幸せとは?私は、その音を聞いたときに、心も、そして身体も幸せになれることだと思うのです。

 音を、音色として捉え、その音を聞いた時にどんな気持ちになるかということと、音をパルス、つまり空気の波として捉え、その音を浴びた時にどんな作用を肉体に及ぼすか、ということを、私は可能なかぎり、同時進行で考えたいのです。

 ただ迫力を追及するだけで激しい重低音をこれでもかと用意するのが必ずしも正確とは思えません。

 その重低音を再生するシステムと、それを再生する会場の響きの特性によっては、その重低音を浴びると目まいを感じることもあります。笑い話ではなく、それで1週間も苦しんだ便秘から開放された実例もあります。客席に妊婦さんがいた場合、胎児に与える影響は測り知れません。9カ月の妊婦がコンサートに行き、1曲目のギターソロとヴォーカルのみの曲の時は何でもなかったのが、2曲目の前にバスドラがドスドスと叩かれた途端、ものすごい勢いでお腹の中の赤ちゃんが暴れだし、その後もバスドラに合わせて、もがくように暴れるのだそうです。どうにも収まらなくなり、コンサートを中座したそうですが、結局早産したそうです。赤ちゃんは無事でしたが。

 この話、「だから妊婦がコンサートに来るもんじゃないんだ」の一言で片付けてしまっていいものでしょうか?音に従事する私達は、音そのものと、音と人間の関わりあいについて、それほど無力なものだと、はなから匙を投げていいのでしょうか?

 わたしは、あがくだけあがいてみたい。

 その試みの一つが、今回のコンサートなのです。

 まだもっと、何かできる筈だ。

 もっともっと、みんなで幸せになりたい。

 これが私の、音の演出のスタンスです。