私は今、音響の同業者と一緒に、私達が所属している日本音響家協会の有志によるプライベートホームページの作成に追われています。

 この号が書店に並ぶころには開設されていると思いますが、音響の人間が集まって、音響以外のことに夢中になっているというのは、なかなかないことで、とても新鮮ですし、今後は、音響の世界の人間は積極的に音響以外の世界へ飛びだしていくべきでしょう。

 今まで、内輪で固まり過ぎていて、外へアピールする機会が少なすぎましたし、また逆に、外からの刺激を取り入れることも少なかったようです。

 そんな作業の中、面白いものを目にしました。

 ある放送局の社内報で、重役の一人が「放送と、来たるべきインテリジェント通信は相いれないものだ」と発言したのに対し、社内から多くの反発を受けて、「放送と通信は融合できる」という反論記事を特集で数多く掲載したものです。

 その反論記事においても、

「放送の本質と、通信の本質が融合できる」

という人と、

「本質が融合することは出来ないが、重複する機能を持っているので、事業として我々放送の人間が通信を兼ねて展開することは出来る」

という人の、二手に分かれていました。

 通信とは、人間が面と向かって、声帯を震わせて声という音を発し、両者の間にある空気を媒介として、自由にコミュニケーションを取るのを、声の代わりに文字やデータを、空気の代わりに回線を置き換えただけのものです。どんなに技術が進歩しても、その本質は変わらないし、変えてはいけないものです。

 アメリカで風俗のインターネット情報が氾濫しているのに対して、規制を加えようとしたり、カナダのどこかのホームページに金正日と北朝鮮の情報を掲載し、彼を称賛するサイトが現れて韓国が大慌てしたりと、何かと騒がれていますが、どんな事があっても、発進者に規制を加えるべきではありません。

 何故かって?人の口を針と糸で縫い付けることはできないし、してはいけないのと同じです。

 自分のページで反論し、反論を呼びかければいいのです。そして何より、

「見なければいい」のです。

 それが通信の侵すべからざる本質です。

 そして、人の声では届かないものが、例えば先の韓国の例では、通信によって38度線が無意味なものになっていく、というところに、通信の意義があるのです。

 では、放送とは何でしょう。

 放送とは書いて字のごとく「送りっ放し」です。

 報道とは、「特定の人間が特定の場所で特定の人に特定の話を聞いて、それがあたかも全てであるかのように送りっ放しにする」ことではなかったのですか?

 決して送り手と受け手がコミュニケートできないものが、何故通信と本質を同じくすることが出来るのでしょうか。

 最近、テレビ番組でもホームページを開設して、視聴者の意見を集めては発表したり、簡単なところではFAXでリアルタイムに視聴者の反応を発表したりしています。でもこれはコミュニケーションではありません。これはあくまでも「演出」です。

 何故でしょう。そこに制作側の意図が介入し、寄せられた声を取捨選択するからです。そして、放送時間というダムがそびえていて、解決も納得も出来ないままに、強制的に論議を終了してしまうからです。

 ですから、これはコミュニケーションではなく、コミュニケーションっぽい「演出」を加えているに過ぎないのです。

 放送屋さんが通信事業を手掛けるのは全く自由です。でもそれは、ピアノの先生がパン屋さんを始めるのと同じく、全く別物だということを、きちんとわきまえてもらわないと困ります。

 私が冒頭で、この放送局の社内報が面白いと申し上げたのは、恐らくその重役さんは、今私が申し上げたようなことはちゃんと分かっていらっしゃるんでしょうに、それに対する反論記事を山ほど掲載して、それらがみんな、何にも見えていない意見ばっかりだ、という点です。

 恐らくこの重役さんも、この社内報を見ながら苦笑なさっているんでしょう。

 通信に、送り手と受け手の境界線なんてないのです。送りつつ受け、受けつつ同時に発信するのです。

 これが分からずに、通信という世界で尚、自分は送り手だ、という気でいるところに、受け手にならなければ分からない通信の「キモ」が見えてないまま一体何を送る気でいるんだ、という点が、大変面白かった、と申し上げているんです。

送りっ放しの世界で自分は送り手だという自負が、通信の世界では通用しないばかりか、放送の本質的欠陥を露呈するだけだということを分かっていらっしゃるんでしょうか。

 多分、お分かりだからこそ、今のうちに自分たちの色に染めてしまいたい、という、焦りのようなものがあるんでしょうかね。

 試しにインターネットを覗いてごらんなさい。

 オフィシャルより個人のプライベートページの方が断然面白いですよ。