アトリエ公演で、面白い試みがありました。

 樋口一葉の「たけくらべ」で、素の舞台にピアノの生演奏、道具なし、というもので、舞台上手、下手に椅子を並べて登場人物はそこに座り、出番が来るとそこから立って中央へ歩み出て芝居をする、という演出です。

 出番を待って椅子に座っている出演者が、効果音を生でやる、という音響プランになりました。この方がこの演出に、そしてピアノの生演奏にもしっくりいきます。御承知の方も多いと思いますが、狭いスペースの中で、役者の生の声、生のピアノの中に、スピーカから効果音を出すと、違和感甚だしいというか、効果音が完全に浮いてしまうのです。役者の肉体にも着地してくれず、その場の空気、空間から、1枚剥離してしまったような肌触りがしてしまうのです。

 効果音は「団扇(うちわ)雨」ただ1つ。

 なあんだと思わないで下さい。この「団扇雨」だけで、雨の降り始め、軒下の雨、激しい雨、瀟々と降る雨、葉に降りかかる雨、上がりかけの雨と、6種類の雨を「演じ分け」るのです。

 上手、下手に3人ずつ、6名の俳優が、一人2枚ずつ、合計12枚の団扇雨を用意しました。狭いアトリエですから、充分すぎる位です。

 この本を読んでいらっしゃる方は、団扇雨など当たり前の様にご存じとは思いますが、最近はあの大振りの、油紙を竹の骨に張った団扇がなかなか売っていません。また小豆(またはビーズ)に穴を開け、たこ糸を通して1センチ程の遊びを残して団扇に付ける時も、たこ糸ではなく細い糸で付けると、小豆が団扇に当たって戻る時、小豆が踊ってしまって良い音が出ません。

 さて。音響の世界でも最近は生音の出来る若手が少なくなっていまして、ましてや俳優さん達は、見るのも初めてという人も多くいました。

 まずは基本的な使い方、音の出し方を教えて欲しいと言われました。え?基本的な使い方?

 そんなのないんだけどなあ。どう握ろうと、どう振ろうと、逆さに持とうと、自分の欲しい音が出せれば、やり方なんか、どうだっていいんだから。

 私も初めて団扇雨をやらされた時に先輩に聞きました。どうやったらいいんですか、と。先輩はジロッと睨んで、

「やり方なんかねえよ。お前が雨になるんだ。お前が雨になって、屋根に降れ。軒に降れ。役者に降れ。お客に降れ。お前が雨にならなきゃ、それは雨の音じゃねえ、ただ小豆が団扇にぶつかった音だ。」

 それは正に至言でした。使い方を聞いているうちはダメだったのです。雨を「演じる」これが音響の、技術ではなく、演出の本質だったのです。

 この話を役者に聞かせました。すると今まで団扇を持って困惑顔だった役者達の顔から迷いが消えて、それぞれに耳をそばだてながら団扇を振り始めました。

 片手に2枚づつ持ってみたり、ほうろくで胡麻を煎るように振ったり、柄を持って団扇を逆さにして振り子のように振ってみたり。そしてそれぞれが、自分の記憶の中にある、降り始めの雨の音、軒下の雨音を思い出しながら、自分が雨雲になって、団扇から床へ雨を降らせようという顔つきに変わっていきました。

 それから随分たって、全員のテンションが等しくピークに達した時、短い間でしたが、確かにアトリエの中に、ザーッと雨が降ったのです。

 まだ慣れていないので、じきにすぐ元の、小豆が団扇にぶつかる音に戻ってしまったのは無理もないことですが、演出の先生には大変喜んで頂きました。

 これで、今回のサウンドデザインは成功、ということになりました。本番オペがないから、機材持ち込みがないからという理由でデザイン料が支払われない、なんていう古くさい次元の低い事は起きません。

 私は「生がいい」「電気音響は使わない」「団扇雨を使うといい」「出待ちの出演者がやるといい」そして、「雨を演じよう」というデザインを行った訳ですから。

 そして後日、出演者から、こんな嬉しい話を聞かせてもらいました。

 「音響って、技術じゃなく、演出なんですね」

 「音で芝居をしてるって事がわかりました」

 そのとおり。舞台音響は3つの要素で出来ています。

 1つは、演出家としての要素。公演の、聴覚演出を担うのです。

 2つめは、プレイヤーの要素。音に芝居をさせ、音を通じて自分が芝居をするのです。

 3つめが、技術者としての要素。1と2の要素を具現化するためのものです。誤解を恐れずに言えば、そのためのものでしかありません。演出なき技術は必要ないのです。

 これを役者の皆さんにわかって頂けたのが、今回の公演の最大の収穫だったと言えましょう。

 身の回りで、上の3要素の内、1と2がなくて3だけの音響だなと思えてしまう公演、またそういう音響さん、いませんか?

 残念ながら増えているという話を耳にしますが、それが当たり前になってしまった時が、舞台音響という分野の終焉の時です。