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 久しぶりに朗読劇の音響プランを頼まれました。

朗読劇の音響は、普通の演劇の音響よりも、はるかに大変で、でも、やり甲斐のある仕事です。
初めて参加したときは、その研ぎ澄まされたような音の世界に、喜びで身が震えるようでした。

舞台装置もない、動きの演技もない、最小限の照明だけ、という、削ぎ落とせるものはみんな削ぎ落とした世界。舞台表現でありながら、主役は声と音楽とお効果音、他に余計なものが何もないという、音が主役の世界です。
音が主役、ということで言えば、私が舞台の世界に入る前にたずさわっていた、AMラジオ局でのラジオドラマもそう言えるでしょう。
しかし、ラジオドラマは、残念ながらライヴではありません。
完パケ制作とライヴという、対極にある世界を、私はずっと行き来してきました。

完パケ制作でのラジオドラマやサウンドドラマ、CDブック制作は、リアルタイムにお客様と接していません。作り込んでいる最中は、あれこれ色んな手の込んだ作業が出来ますが、お客様に聴いていただけるのは全て終わったあと。ラジオ局で夜の番組にたずさわっていた時も、ふと、「この番組を、ひょっとして誰も聴いていなかったらどうしよう」という、冗談のような孤独感にかられることもありました。
また、放送メディアの免れない条件として、「送り手が受け手のハードウェアを強制出来ない」ということがあります。

「静けさや 岩にしみいる 蝉の声」という、日本人の豊かな音に対する感性を見事に表したこの松尾芭蕉の句を、放送で再現しようとしたら大変なことになります。
かすかに聴こえる蝉の声を、受け手は理想的な再生環境で聴いてくれてるかもしれないし、賑やかなラーメン屋さんのカウンターの上のモノラルのラジオで聴いてるかもしれない。車の中かもしれない。どんな環境であってもきちんと聴こえるように蝉を鳴かせると、やかましく蝉を鳴かせなければなりません。
また一方、芭蕉の世界に忠実に鳴かせると、かすかな蝉の鳴き声では、受け手の環境によっては聴き取れず無音状態になってしまって、放送事故になってしまいます。

このエッセイでもかつて紹介した、ピカードの「沈黙の世界」という本の冒頭に書かれている、「沈黙とは、音がない状態ではない。沈黙という音がそこにあるのだ。」という観念は、放送メディアでは許されないのです。
しかし一方、ライヴの世界では、音が主役ではありません。
出演者がいて、舞台美術、照明などと共に「総合芸術」として成り立つ舞台表現では、音響は数ある要素の一つであり、音だけですべてを表現する訳ではありません。

ライヴの世界では音は主役ではなく、完パケや放送の世界ではお客様とリアルタイムで時間と空間を共有できず音響表現にも限界がある、この二つの世界のあいだを私はいつも時計の振り子のように行ったり来たりして活動をしては、どちらにおいても完全な満足を得られないで来ています。
朗読劇は、その両方を満たす可能性を持つものです。
昨年は、旧暦の十三夜に樋口一葉の「十三夜」の朗読劇を行なうという公演に参加しました。

今年からは、季節ごとに年四回、「半七捕物帳」を詠み継いでいくという公演に参加いたします。
本番での客席では、お客様は、声と音を聴くというよりも、はるかに聴覚が鋭敏に研ぎ澄まされていって、客席のテンションが澄み渡っていくのが分かります。
お客様の全身が耳になっていって、いつしか暗い客席全体に巨大な耳があるような錯覚を覚えます。
そこに、声を発する、それは声という音を発するのではなく、声という「気」を一つ、まるで水墨画の紙に初めの一筆が落とされるように発する、という感じです。
そして音楽と効果音。朗読劇での音楽と効果音は、通常の舞台公演に比べて役割が桁違いに重く、音素材の制作や選定からオペレートまで、大変に繊細で緻密なセンスが求められます。

お客様は音だけで作品世界の情景や心情をすべて感じ取ろうとします。その空間へ音を発する、声に沿わせるように縫うように、声とともに編み上げるように、音で世界と情感を表現していきます。
演劇などの舞台公演とは明らかに異なるアプローチが必要です。

この朗読劇の公演では、先に述べたような、ライヴの良さであるところのお客様と時間と空間を共有する一体感があり、空間音響表現もいろいろ出来て、なおかつ、ラジオドラマやサウンドドラマなどのように、音が主役でいられるという、私にとっては腕の振るい甲斐がある公演です。
最近、いろんなところで、このジャンルの公演が増えているようです。とても嬉しいことです。

機会がございましたら是非足をお運び頂きたいと思います。


(石丸耕一 音響演出家 www.lunadfuego.com)


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