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 先月からの「銀河鉄道の夜」サラウンドドラマ化のお話の続きです。

「銀河鉄道の夜」という作品のテーマをまず掴み取り、そのテーマを表現するにあたって、サラウンドという表現方法を使ってこそ、この作品のテーマを、より明確に伝えることができた、という作品にしなければ、ただ効果音や台詞がグルグル回っているだけでは、ただのこけおどしになってしまい、その表現方法はすぐに飽きられて短命に終わります。
そのため、原作を改めて読み直し、サラウンドドラマ化という観点から、テーマの切り取り方を模索するところから始めました。

銀河鉄道は、言ってみれば「死者の乗る船」です。
タイタニック号で沈没する船の中から、他の誰かを助ける為に命を落とした人、川に落ちた友人を助ける為に命を落としたカムパネルラ、そういう「死者」が天国をイメージした「サザンクロス」へ向かう為に乗る、空を飛ぶ軽便鉄道です。
ストーリーらしいストーリーのない、難解と言われるこの作品のテーマは、この、「誰かの幸いの為に自分を犠牲にする」ことの美しさ、サクリファイスである、とも受け取れます。

井戸に落ちたサソリが「今度生まれてくる時は、こんなにむなしく命を捨てず、まことのみんなのさいわいのためにこの身体をお使い下さい」と神に祈って星座にしてもらいます。

一旦は、その路線で脚本を書き始めました。
が、どうしても違和感がぬぐえません。
サクリファイスの美しさを原作が謳っているのなら、作品全体を覆うこの淋しい、哀しい透明感はなんだろう。

銀河鉄道が「死者の乗る船」ならば、なぜ作者はわざわざ、生きているジョバンニを銀河鉄道に乗せて、死んだカムパネルラと会わせ、そこで別れさせたのだろう。
まるで作品全体が、ジョバンニとカムパネルラの別れのセレモニーであるかのようです。
そこで、ほぼ書き上げた脚本を捨て、宮沢賢治の手書きの原作を資料として考え始めました。
すると、手書きの原作は、何度も推敲され、書き換えられ書き加えられ、明らかに迷いが見て取れます。

迷い、というよりは、ためらいに近いものを感じました。
書きたいんだけど、やめておこう。
書いてはみたものの、やっぱり秘めておきたい。
そうしてためらったまま、原作は未完のまま、宮沢賢治はこの世を去っています。
なぜこんなにためらったのか。
明らかにすることをためらった、宮沢賢治の想いは何だったのか。
別の文献を見ると、ちょうどこの執筆の最中に、宮沢賢治は妹を亡くしています。

その悲しみの大きさは尽くしがたい、とありました。
この時、この作品のトータルの「音の色」が、私には見えたと感じられました。
誰かの為に命を落とす、サクリファイスの尊さ。
しかし、そう思いでもしなければ、後に残された生きている者の悲しみは、やり場もなければ救われもしない。

自分の大切な人の死は、ただの死ではなく、きっと美しい死であった、その人が生きていたことも死んだことも、無駄ではなかった無意味ではなかった、そう思いでもしなければ、張り裂けそうで耐えられない、この悲しみ。
ここが、「銀河鉄道の夜」の執筆中に妹を亡くした宮沢賢治の心情であり、それが、私が感じた、作品全体を覆う淋しさ、冷たい、カリンとした透明感であり、その透明感こそが、サラウンドという表現方法を用いることで、お客様に感じてもらうポイントだ、台詞にせず台詞に頼らず、サラウンドで感じてもらうところだと、焦点が定まってからは、一気呵成でした。

死んだカムパネルラと生きているジョバンニが、「死者の乗る船」である銀河鉄道でわざわざ出会い、そして別れたのも、宮沢賢治が死んだ妹に会いたかったからだ、と受け取ることにしました。そうすると、ジョバンニの、「カムパネルラ、どこまでもどこまでも一緒に行こう」や「けれども、本当のさいわいは、一体なんだろう」という台詞、カムパネルラの「母さんは僕を、許して下さるだろうか」という台詞のトーンも、ハッキリ決まってきます。

作品完成の試聴会で、お客さんの中から数人の女の子が、

「すごい透明感を感じました」

と言ってくれました。
あ、伝わった、と思いました。
サラウンドが演出と有機的に結合した瞬間でした。
サラウンドという表現方法の特長として、音を出すことで、音を「聴かせる」のではなく、「感じさせる」ことが出来る、ということです。

同時に、次回作で挑戦すべきテーマは、サラウンドを用いることで、音を「聴かせる」のではなく、音の手触り、感触をどこまで伝えられるか、空間の「色」をどこまで感じてもらえるか、ということだと思っています。
その為の、脚本執筆という格闘。

挑戦はこれからも、ずっと続きます。


(石丸耕一 音響演出家 www.lunadfuego.com)


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