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 私の手元に一冊の本があります。

ピカートの「沈黙の世界」という本です。
私はこの25年間、折りにふれ、この本と向き合って、この音響の世界を生きてきたように思います。


20代そこそこの修行時代、所属していた舞台音響会社では、私はそれはもう使い物にならないダメ新人で、私自身もそれを骨身に染みるほどよく痛感し、毎日が勉強と経験と自己嫌悪の連続でした。
そんな日々の中で、一人、とても親身に指導して下さる先輩がいました。
先輩と言っても、私とは親子ほども年が離れた、大先輩の方でした。
その方に付いて仕事をする時は、緊張と共に嬉しい時間を過ごさせていただきました。

会社から稽古場への移動のあいだ、その方が話して下さる色々な音の話は、私にとって一つ残らず聞き漏らしたくない、忘れたくない、かけがえのない話ばかりでした。
その方の専門は日舞、邦楽、伝統芸能でした。学生時代からロック小僧だった私には、見るもの聴くもの生まれて初めてのものばかりで、私は貪欲にその方から吸収していきました。

とある冬の寒い夜。終電なんかとっくになくなった深夜、音響会社のアトリエと呼ばれていた編集スタジオで、私とその先輩は、2台のオープンデッキの前に並んで座り、その日の稽古場で決まった編集作業をしていました。
編集のあいだも、色々な話を肩を並べて聞かせてもらい、一区切りついて、その方が頼んでくれた出前を食べさせてもらい、それはもう冷えきってしまっていましたが、それも毎度のことですが嬉しい時間でした。
その時その先輩が、こう切り出してきました。

「この本、知ってるかい?」

そう言って出されたのが、冒頭でお話した、ピカードの「沈黙の世界」でした。
当然のことながら知りません。そう言うとその方は、

「じゃあ、この本、君にあげるよ。」

あっさりとおっしゃるのでこちらもあっさりと、

「あ、どうも。ありがとうございます。」

と、あっさり受け取りましたら、その方が、

「ゆっくり読んでくれ。何年もかけてな。」

と、おっしゃいます。え?どういうこと?と思ってその方を見ると、

「僕は20年以上、この本と向き合ってきた。そして仕事の時に、この本を考えていたんだ。
君ならこの本、分かるだろうし、役立ててくれるだろう。
この本、君に託すよ。いいね。」

掌の上の本がいきなり、ずしり、と重くなりました。


沈黙とは、音が無い状態ではない。
沈黙という音が、そこにあるのだ。
言葉は沈黙より生まれ、やがて沈黙するために語られる。
音楽は沈黙より生まれ、あたかも沈黙の上を流れて行くようであり、やがて沈黙するために奏でられる。
沈黙は言葉なくしても存在しえる。しかし沈黙なくして言葉は存在し得ない。


これが「沈黙の世界」の冒頭です。
これを20才そこそこで手渡された私の心情をお察し下さい。
この言葉を音響の仕事の中でいつも考えながら生きて行く、そうすると何が見えてくるのか、何が分かってくるのか。
手渡された時はそれこそ、呆然としましたが、以来25年間、この本はいつも私の傍らにあります。

気がつけば、その先輩がこの本を持っていた年月よりも長く、私が所持してしまっています。
未だに何か分かったかという確信はありませんし、答えも見つかった訳でもありません。
ただ、確実に、私の仕事の核になっているという実感はあります。
この「沈黙の世界」を、音響家としてどう受け止め、どう答えを返すのか。答えを返すことが出来るのか。

これからもずっと、この本を傍らに、私なりの答えを探して、私は生きて行くのでしょう。
そして今、新たな興味として、この本を私はいつか、誰に託すのだろうか、と考えたりします。

託す相手に出会うのだろうか。

出会わないのだろうか。

本はすでに出版されて50年近く経ってきて、丁寧に扱ってきましたがだいぶ古ぼけてきました。
持ち主を替えながら、音響家の手から手へ、託し継がれる一冊の本。
前述の先輩は、10年ほど前、病気で現場を退かれ、昨年、亡くなられました。
先輩はいなくなられても、この本は残り、この本と共に先輩は記憶として生きています。

そしていつか私も、そうなるのでしょう。


(石丸耕一 音響演出家 www.lunadfuego.com)


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