otowa.gif

 先月のお話の続きです。
音響は、技術であり、科学であり、学問であり、医療で活用され芸術にも活用されています。

 先月お話しした、音響は芸術なのか、という問いに関しては、音響は芸術という限定されたジャンルのみに行われるものではありませんから、音響は芸術ですと言い切ってしまうことはできないでしょう。強いて言うならば、音響は芸術でもあります、といったところでしょうか。

 上記で述べたように、音響は多岐にわたったジャンルに於いて関わっているものですから、先月のもう一つの問いであるところの、音響は文化であるか、という問いに関しては、そうであると言っていいと思います。
先月はこれについて、そうであって欲しい、と書きました。音響は、文化であって欲しい、と。

 ここのところで考えなければならないのは、文化である、と言い切ることのできない、現在の音響に対する一般の世の中の認識、認知度です。
この認識の低さゆえに、音響は文化である、と言い切ることができずに、音響は、文化であって欲しい、という言い方をしている訳です。
なぜ音響に対する認識、認知度が低いのでしょう。
それは根本の原因が、音響は聴覚に働きかけるものであり、聴覚は無意識の感覚であるので、どうしても認識が低くなってしまうのだと考えられます。それに対するには、認識、認知度を高めるアクションを、音響の世界が一般に向けて行わなければならないと考えます。

 今、人間の聴覚は、退化しつつある、と言われています。
聴覚だけでなく、視覚や嗅覚など、人間の五感は全て、退化の方向にあるそうです。生物の感覚器官は、その生物の種が生き残るために進化してきました。原始の生物は、視覚や聴覚、嗅覚などが非常に単純だったりあるいはなかったりします。その生物が、より多く生き残るために、五感が発達していきます。これが進化です。
五感が発達し、その五感によって得た情報に対して、より早くより正確に対応できるように、四肢や筋肉が発達しました。虫も魚も鳥も動物も、生物はみな、そのように進化してきました。それは人間も同じです。

 人間は、生き残るために脳が他の生物より並外れて進化しました。その結果、自分たちの肉体を何億年もかけて進化という改造を施さなくても、進化した脳によって生み出した技術によって、より速く、より高く移動できるようになり、より強く、より大量に捕食出来るようになりました。
こうなると、肉体の五感がこれ以上発達をする必要がなくなってしまいます。進化と退化は同義語です。服飾文化が発達したので、体毛は退化しています。退化という形をとった進化です。靴が発達したので、裸足で大地を踏みしめる必要がなくなってきましたから、足の小指が退化しているそうです。

 視覚は遥か遠くを見なくてもよくなりましたし、暗闇でものが見えなくても命の危険がなくなりましたから、普通の文明生活で不自由しない程度のところまで退化してきています。嗅覚も、敵のにおいを嗅ぎつけて命を守る必要がありませんし、食物の腐敗を嗅ぎ分けて身体を守る必要も薄れてきました。聴覚も同じです。音を聴いて危険を察知して身を守る必要が薄れてきましたから、文明生活に必要十分なだけの聴覚の能力になってきています。これが、進化という名の退化です。

 例えば耳たぶ。耳たぶの耳の穴の入り口の下にある襞や隆起が、音の上下を聞き分けるための反射板の役割を果たしているそうです。この襞が、現在、なくなってきているそうです。それが現在、人が、音の上下の定位感に鈍感になってきている理由だそうです。これもまた、聴覚によって身の危険を察知する必要がなくなってきたからです。

 このように、感覚器官として退化しているだけでなく、そもそもの感覚としての有り様が、無意識下の感覚である聴覚。この聴覚に働きかけようとするのが、私たちの携わる音響です。では、この音響は、上記のような有り様の聴覚に、いったい何をするのでしょう。聴覚に、音響というものを施すことで、人間に、聴覚に、何を喚起するのでしょう。

 ここのところを考え、アピールすることが、音響が文化であると認知される為の肝要であろうと思うのです。それは、音響が文化となることで、人間や人間の聴覚に何が出来るのか、何をしなければならないのかという存在理由の模索も含めた活動です。

 今、様々なジャンルで音響に携わる人々が、これを行う必要があると考えます。今これを始めなければ、音響は、文化どころか、聴覚の退化に付き添って、衰退の道しか残されなくなってしまうでしょう。


(石丸耕一 音響演出家 www.lunadfuego.com)


backnext
OTOWAYA home