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 舞台音響の仕事に携わっていると、ときどき「芸術に携わるお仕事をされていて」と言われる事があります。テレビやラジオや出版物の取材を受けている時や、知り合いや親族、同窓会の席などでそういう時があります。
その度、なんだか困ったような、座り心地の悪い気持ちになるのです。
自分ではそういう意識が全くないからです。

 音響というもの、それそのものは、芸術と呼べるかというと、それは違うでしょう。音響は技術であったり演出であったり、医療であったり学問であったり科学であったりします。
音響が、文化となるには、今何をしたらいいのか、ということは、さまざまな局面で考えざるを得ないことが多くあります。
しかし、芸術かどうか、ということになると、「ちょっと違うんじゃないかな」と思うのは、多くのご同業の方々も同じでしょう。そういう声はよく聞きます。

 芸術的側面があることは確かです。しかしそれは、ごく一部であって、それが音響の本質かと言えばそうではありません。先にも述べたように、音響は医療でも学問でも科学でもあるからです。
では、私が音響家として携わっている舞台の世界が芸術と呼ばれているから、そう言われるのでしょうか。
これについては、「それはそうだろう」とおっしゃる方も多くいらっしゃると思います。が、これについても私は、首をかしげざるを得ません。舞台表現は、芸能であることは間違いありません。しかし、芸術かどうかと問われますと、自分の中の半分は頷き、半分は首をかしげてしまいます。
それは多分、現在の時代に於いて、芸術という言葉の使われ方、意味合いに自分が納得できていないからなのでしょう。

およそ芸術の発露は、往々にして、反体制であったり、反常識であったり、インモラル、猥雑、エロスといったものが起爆剤となります。
例えば現在すばらしい芸術と呼ばれている絵画の印象派は、そもそもが当時のアカデミーから認められない人たちの叛旗、アンチアカデミーでした。日本の歌舞伎も、言わばこれに類するものでしょう。江戸時代に於いて、体制批判、エロス、暴力的カタルシスが歌舞伎の発祥と発展の燃料であったことは確かです。

 時代の常識の枠に収まり切らない危険なエネルギーが、時を経て、芸術と評価されることはよくあります。ですが、これも正解の全てとは言えません。時代の体制に評価され、時代の大衆に愛され、そして紛れもなく素晴らしい芸術であるものもたくさんあります。絵画で言えばドラクロア、音楽ならロッシーニ、他にも沢山思い浮かぶでしょう。

 さて、舞台表現は、音楽や絵画、文学とは違い、客席にお客様がいなければ成立しない表現方法です。
つまり、その時代の、人々の支持を得られなければならず、送り手が「これは芸術です」と言ったところで、時代の大衆に喜ばれ受け入れられなければ存在すら出来ないものです。
そうしますと舞台表現は、他の絵画や彫刻や音楽や文学とは違い、作り手の想いのみに忠実に創り上げるわけにはいきません。
自分の欲する演技や演出と、「果たしてこれでお客様に受けるだろうか」という検証が、常にせめぎ合います。片方に傾き過ぎれば「自己満足」、もう片方に傾き過ぎれば「媚び、迎合」となってしまう、このタイトロープをバランスを取りながらもがき苦しむのが舞台表現です。

 私はそれが芸能、エンターテイメントと思って日々懸命に勤めておりますが、さてこれを「芸術」と簡単に呼ばれてしまうと、どうにも面映ゆい、というのが、冒頭にお話したことなのです。
つまり、ここまでお話したように、私にとって芸術という言葉は、簡単にくくることも定義することも出来ない、もっと複雑で生臭い、殺気立ったもののように感じて日々勤めているのに、現代の風潮は、芸術という単語をあまりにも簡単に使い過ぎているように感じられるのです。
もっとも、もがき苦しむ坩堝の中にいる私たちは、自分たちを評価したり振り返ったりする暇も余裕もなく、それが芸術であるかどうかというのは、端で見ている人たちの評価だったり後世の評価だったりするものなのでしょう。その評価は、当事者にとってはどうでもいいことであって、望むものはただただ、目の前の観客の拍手だけなのです。

 では、先に述べた、音響が文化となるには今何をしなければならないのか。これについて私は現在のところ確たる答えを見出せていませんし、このところ私の周辺では活発にこの論議が交わされています。

 今日は職場の劇場はマチネ公演のみ。この原稿を書き上げて、今夜も音響の各業界の方々と意見を交わし、お話を拝聴しに出かけてきます。
次回、このお話の続きをさせていただきます。


(石丸耕一 音響演出家 www.lunadfuego.com)


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