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 歌舞伎400年、オペラ400年とはよく言われますが、能は600年。一度も断絶せずにずっと公演が行われている舞台芸術としては、世界最古だそうです。ですから、能や能の発祥地である京都には、時々ビックリさせられるような話に出くわします。

 京都の一般の家で、庭の石灯篭についている傷を、「これは先の戦争でついたもので」と言われた人が、「おかしいな、太平洋戦争で京都は戦火をまぬがれたのでは?」と訊くと、応仁の乱のことだったとか。
能楽師の方が「これは五代将軍様から拝領したもので」とおっしゃるので、五代ということは徳川綱吉か、元禄時代の衣装か、こりゃあ古いものだ、大したものだと感心していたらとんでもない、足利五代将軍義政だったとか。

 こういう話をきいていると、とんでもなく古いもの、悪く言えば古いということだけが価値と勘違いされがちですが、とんでもありません。ただ古いだけだったら現代まで絶えることなく上演され続けることは出来ません。そこには、古いも新しいもない、いつの時代にも共感を呼ぶ、「普遍性」がそこにあるからです。

 能楽の本質についてここでお話ししても、それだけで何冊もの本が出来てしまうくらいですし、私のような若輩などより多くの先人が沢山の書をものしていらっしゃいますから、必要ないでしょう。何よりも私自身が未だ勉強中の身です。ただ、その能楽の教えの中に、やはり普遍性を持つ至言がありまして、私自身も成程と実感し、若手にも教えている言葉があります。
守破離、という言葉です。

□守は、守る。先輩や師匠の芸や技を見て真似る。コピーする。とにかく模倣することで吸収する。

□破は、破る。守の段階で身に付けた先輩や師匠の芸や技に、自分で考えた改良点や解釈を加えてみる。

□離は、離れる。完全に全く新しいオリジナルを自分でゼロから生み出す。

能楽の修業のプロセスを言い表した言葉ですが、この言葉は、およそ全ての技術、技能、芸能にあてはまる言葉です。
まずは、真似る。先輩や師匠のコピーをする。その過程で、技術や技能を身に付けると共に、その技術や作品が、どのような過程で生み出されてきたのか、どんな試行錯誤が繰り返されてきたのか、が自然と理解できる訳です。その経験は、いずれ将来、自分がオリジナルを生み出す時に必ず役に立つ有効な知識になります。しかしながら、この基礎修業、若い世代にはとかく苦痛で辛抱を求められるものです。

 そこで、若い世代には、こういう話をして納得をさせています。
古典を学ぶということは、パクリ防止なんだよ。
こう言うと、みんな「え?」という顔をします。
自分には才能がある、表現したい個性がある、とみんな思ってる。そう思ってる人はこの世界に星の数ほどいる。自分だけじゃない。その上、有史以来、星の数ほどじゃきかないほど多くの人たちが、同じように思っていろいろ試したり作品を発表したりしてきた。それらを知りもせずに自分で何か新しいものを生み出したと思い込んでも、「それは30年前に、とあるバンドが既にやったフレーズだよ」「それは100年以上前に試されたという資料が残っているよ」ということになりかねない。だから、古典を学ぶということは、パクリ防止になるんだよ、と説明をしてあげることにしています。そうすると、みな納得して、神妙な顔をして古典を学ぶようになります。それにしても、気になることがあります。

 歴史を重ねるほど古典は増えて行きます。後に生まれた者ほど古典を学ぶ量が多くなって大変だ、という笑い話もありますが、ここ数十年、新しい息吹の気配があまり感じられません。
20世紀を以て美は死んだ、という美術の世界の方がいます。
五線譜で書かれる西洋音楽はすべて出尽くした、という音楽の世界の方がいます。

 現代は芸術の花盛りといわれますがその実情は過去の膨大な人類の芸術の財産を堪能し消費しているだけで、新しいものが生まれ出でている訳ではない、という見方もできます。
私はそれを、20世紀の100年間、特に中盤以降、芸術や芸能が、そもそもお金を払って下さるお客様に満足して頂かなくては意味がないのだということを置き去りにして、自分自分自分、俺俺俺、自己主張自己主張、その結果、過去と途切れ、未来にも繋がらない、そんな気がするのです。

 現在を例えて言えばネオ・ロマネスク、19世紀半ばから20世紀初頭の、人類の歴史が華やかだった頃を懐古しているように感じます。

言い様の無い閉塞感、行き止まり感が漂っているような気がします。
こういう時だからこそ、守破離の、守。
破につなぎ離を生み出す為の、足元を見直す時です。


(石丸耕一 音響演出家 www.lunadfuego.com)


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