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 先月からの、効果音のお話、の続きです。

 脚本が手元に届き、読んで行きながら効果プランを考えます。この時点で、頭の中では音が鳴っている訳です。

 次に一つ一つの音について、どういう扱いにするかの判断が始まります。この音は、生で舞台袖などで擬音を演じてやるのが効果的か、それとも録音してスピーカから再生する方が適しているのか。

 おそらく、ここの手順が現在の若い音響さんの仕事の手順からスッポリ抜け落ちているのだと思われます。

 効果音は録音された完パケ素材をスピーカから再生するものだと思い込んでしまっています。

 とんでもない話です。それでは音響さんは、電気のないところでは全く無力になってしまうではありませんか。

 電気があろうとなかろうと、音響機材があろうとなかろうと、音響さんに出来ることはいっぱいあり、またどんな手段を使おうと、効果が得られればそれでいいのであります。

 全力を尽くしてお客様のために効果を行う、これが演出としての音響であり、先月お話したアルチザンとしての姿勢です。この姿勢に、音響さんも料理人もフラワーデザインも違いはありません。

 キャパが300人程度の間口の狭い舞台で、例えば鳥の声を出すのに、舞台袖のスピーカから完パケの鳥の声を再生して、お客様の至近距離でスピーカ臭い鳥の声をお聞かせするのが本当にその場面の効果になるのか。舞台袖で生で擬音の鳥を演じた方がよっぽど良かったりします。

 そういう選択、選別の作業があって、それではスピーカから効果音を再生しましょう、となったとします。

 次に来るのは、再生する素材は、擬音を録音したものを使うのか、それとも本物の鳥の声を使うのか、という選択です。

 冒頭でお話したように、プランを立てている時点で、頭の中では既に音が鳴っています。ですからここでは、自分の頭の中のイメージに、より近づけるものを選びます。擬音の方が良い、本物の方が良い、という観念は不要です。効果が得られさえすれば、手段は問わないのです。

 そして、擬音の鳥の声を完パケにしてスピーカから再生する、と決まったとしましょう。

 生でやるか録音して再生するかという判別の手順を踏んで来た訳ですから、録音という選択を下としても、マイクの前で一度は「演じる」訳です。ここのところを、安易に「有り物」で済まそうとしてしまうのは、自分自身のイメージに対する背信行為、自分で自分を裏切っているとしか言いようがありません。

 自分で演じてみた、その音と「有り物」の音を比較してみた、そしたら偶然有り物の効果音の方が自分のイメージに近かった、だからその有り物の効果音の制作者に敬意を払いつつ、有り物の効果音を使わせてもらう、というのならまだ話はわかります。

 必要な効果音をさっさと他人の作った効果音ライブラリーから探し出し、「これでいいや」と決めてしまうということは、はなからその音に演技をさせるつもりがない、或いはその音を通じて自分が演ずるということを念頭においていない、ということです。

 そういう人達が共通して言う物言いがあります。

 「ポン出し」という言葉です。

 とてもじゃありませんが私は卓の前に座って数十年、ただの一度もポン出しなんかした事ありません。

 そっと差し出したり、こっそり忍び込んだり、思いっきり叩き付けたり、泣いたり笑ったり、一つ一つの音に芝居をさせ、音を通じて自分が演じ続けて来ました。ポンと出しゃいい、なんていう類いのものではありません。効果音というものは。

 そんなものはただの音、あるいは雑音、ノイズです。

 だったら邪魔臭いから出さない方がましです。

 実際、お客として舞台を観に行って「いらないな、邪魔なだけだなこの音は」と感じる効果音はたくさんあります。

 おそらくポン出ししてるんでしょう。

 効果音の原点は、音に芝居をさせる、或いは音を通じて自分が演ずる、ということです。

 俳優からすれば、姿の見えない共演者だ、と役者さんに言われた事もあります。

 時代が変わりハードウェアが変わろうとも、決して変わる事のない、変わってはならない普遍の真理です。

 そこに軸足をしっかり置いていれば、決して見失う事はありません。

 あなたがレストランへ行ってハンバーグを頼んだ。

 そしたら隣のレストランから出前で取り寄せたハンバーグを出されたとしたら。

 あなたはそのレストランをどう思いますか?

 芸術的分野に於いて芸術的技術職を働く人々を指す、アルチザンというフランス語。

 改めて我が身に置いて考えてみたい言葉です。

(石丸耕一 音響演出家 www.lunadfuego.com)


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