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 今回は、ある思い出話を致しましょう。

 ボリス・ポクロフスキーさんという方のお話です。


 1990年のこと。それまで歌舞伎座、新橋演舞場、明治座といった、時代劇や新派、新国劇、歌舞伎、伝統芸能が中心の商業演劇の世界で働いていた私が、現在働いている劇場のこけら落としメンバーに参加し、そこで生まれて初めてオペラのスコアを手渡された時の当惑と混乱は、今でもリアルに思い出されます。

 学生時代ずっとブラスバンドにいたので五線譜自体にアレルギーはなかったのですが、総譜という、楽譜の化け物には本当に途方に暮れました。

 初めて携わったオペラは日本のオペラ劇団。どうにかこうにか汗顔ものでこなしはしましたが、一体これでよかったのか、本来どうならよいのか、全く自信がありませんでした。

 用語を憶えるのに四苦八苦しているような人間が、お客様からお金を頂いて音をお聞かせしていいものなのか、と内心忸怩たる思いでした。

 さてその半年後。追い打ちをかけるように今度は、モスクワ・チャンバーオペラの初来日公演が決まりました。

 その総監督がボリス・ポクロフスキーさんでした。経歴を見てびっくり。

 元モスクワ・ボリショイ劇場の総監督で生前のショスタコービッチとコンビを組んで数々のショスタコービッチ作品を世に送り出し大成功を収めている、すごいおじいちゃんでした。

 事ここに及んで、ついに私も開き直りました。

 それだけの人が来て一緒に仕事をするんだったら、いっそのこと訊いてしまおう。何にも分からないと言って恥ずかしい年齢ではないし(当時26才)、幕下が横綱に胸を借りるような気持ちで、洗いざらいさらけ出して全力でぶつかってみよう。

 幸い友人のロシア語通訳がその公演に参加してポクロフスキーさんにつきっきりだったので、彼女に手引きをしてもらい、食事休憩の時間に楽屋を訪ねました。

 ポクロフスキーさんは車椅子に座っていました。
「彼女からあらましは聞いたけど、私に訊きたい事って何だね?」彼は小さな声で微笑みながら話しました。

 私は自分の経歴、日本の伝統芸能の世界からいきなりオペラをやることになってとても自信がないということ、今までの経験から暗闇を手探りで試行錯誤してはいるが果たしてこれでいいのか、見当違いのことをしてやしないか、緊張で汗びっしょりになりながら夢中で話したのを憶えています。

 ポクロフスキーさんは聞き終わるとまず、私に軽く右手の掌を差し出すようにしながら「ダー、ハラショー」と言いました。

 「まず君が、そういう気持ちと目的で、私を訪ねようと決めて実際に行動したことをとても嬉しく思う。この出会いは私にとってもとても嬉しく有意義な出会いだと君に感謝したい。

 さて質問の件だが、電気音響はオペラにとって、とても有効な演出効果だと思っている。これはショスタコービッチも同じ考えだった。実際に彼の作品には、演出の目的でマイクを通した歌を聴かせると指定された箇所があるんだ。また効果音というのは、オペラの世界に奥行きを与え、演出家のイメージの具現化に大きな力を与えてくれる。モーツァルトの時代に電気音響があったら、彼は大喜びで多用しただろうと、バーンスタインも常々言っていた。

 ただ、特定の演出のない、ただの拡声の目的でマイクを使うことは、オペラの本質を否定してしまうことだ。それはしてはいけない。安易にそれをしてしまうと、それが理由でオペラから電気音響がオミットされてしまう危険をはらんでいると私は思う。」

 彼の言葉は当時の私には新鮮な驚きでした。というのは、彼の言葉は、そのまま、オペラという単語を歌舞伎に置き換えると、今まで私が歌舞伎座や演舞場でやってきたことと全く同じだったからです。
「その通りだよ。私も君の話を聞いていて驚いたんだ。歌舞伎とオペラは、音響のアプローチが全く同じだとね。君はオペラが全くわからないと言いながら、歌舞伎のキャリアと経験で、全く正しい道を歩んできたという訳だ。
とても興味深いし、とても幸せなことだね。どうかそのまま、自信をもってやって欲しい。自分は正しいんだとね。私が保証するよ。」

 彼との話はそれで終わりました。あとは少しの間、彼が楽屋で食事を摂っている間、世間話やその時の公演についての話にお付き合いしただけです。でも、それから15年、私はオペラの仕事で一度も迷わずに仕事をしてこれました。それは全て、彼のおかげです。

 ちょうど今時分、寒さが身を切り裂くような季節でした。そういえばモスクワを訪れた時も気温はマイナス40度。これでモスクワの人達は「今年は暖冬だ」と言っていたのです。

 毎日寒い日が続きますが、「モスクワはこんなもんじゃない」と口の中で呟き、コートの襟を立てます。

 そうすると車椅子の彼の膝を覆っていた、ショールの色を、思い出すのです。


(石丸耕一 音響演出家 www.lunadfuego.com)

 

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