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 音楽、というと普通には西洋音楽のことを指し、ロックもポップスも、ジャズやクラシックもみんな、西洋音楽のカテゴリーに入ります。

 一方この地球上には、西洋音楽とはまったく異質の音楽文化が沢山あります。

 それらはみんな、民族音楽というカテゴリーで一括りにされてCDショップの棚で肩を寄せ合って並んでいます。

 しかし考えてみますと、この民族音楽という括り方は、ずいぶんと乱暴なものです。
 日本の伝統音楽だって、遠い外国の人からみれば東アジアのマイナーな民族音楽の1つでしかない、とみられているでしょう。

 結局この彼我の違いは、音楽の優劣、善し悪しではなく、その音楽が生まれた国の国力の違いとその歴史でしかありません。

 ヨーロッパキリスト教国家群の植民地政策がなければ西洋音楽はここまで普及しませんでしたし、日本が東アジアの他の国に先駆けて開国し植民地化されず独立国として国力をつけたから、日本の文化は他の東アジアの国よりも少々世界で知られている、それだけのことです。

 文化の認知と評価は国力次第、ということを痛感します。

 それはその文化そのものの本質的な評価にはなりません。世界的にはマイノリティーであっても、その本質は驚くほど高くしかも異質で、すばらしいものがたくさんあります。
 シタール、というインドの楽器があります。そのコンサートに携わった時に、シタール奏者に伺った話を御紹介したいと思います。

 西洋音楽の本質は、再現性です。音楽が楽譜という形で記録され、一度記録されれば何度でもその音楽は再現することが可能です。モーツァルトが没後何百年経とうと、楽譜さえあれば他人の演奏によってモーツァルトの音楽は再現が可能です。モーツァルトがいなくなったら彼の音楽も二度と聴けない、という事はありません。またモーツァルトの作品それぞれも、一度演奏されたものはその時その場限りという訳ではありません。

 そしてその西洋音楽の本質である再現性を確保するために、演奏者や歌手には練習、トレーニングというものが要求されます。

 なんの練習もせずに、どの曲もどの歌も演奏したり歌ったりすることはできません。自分の思いつきで勝手なメロディーを奏しても、それはモーツァルトの作品とは呼ばれません。
 3つ目の要素として、先に挙げた2つの要素に因って、演奏時は、奏者・歌手と聞き手の間に、ある一定の緊張感が発生します。

 演奏者・歌手の側には、上手くやろうというテンション、聞き手には、よし聞くぞというテンションが、演奏会場という空間を満たします。送り手と受け手の双方が一生懸命です。

 こう書き連ねてみると、「当たり前だろう」といわれそうなこれらの話は、西洋音楽という限定されたカテゴリーの話です。もちろん他の文化圏にも、再現性を持つ音楽文化は数多くありますが。そうではない音楽文化も、この地球上には実は沢山あります。

 シタールに代表されるインド音楽の本質も、現代でこそ西洋音楽の要素を多く取り入れて再現性を持つようになっているそうですが、本来は、再現性を否定し、練習を否定し、送り手と受け手の間の緊張感を否定するものだそうです。

 演奏者は楽器の操作方法を覚える以外は何もせず、練習を否定する代わりに楽器を持って、裸足で、ずーっとインドの山野を彷徨っていきます。どこまで?どこまでも。あてもなく。裸足の足の裏から、大地とコネクトして、風が自分の中を通り抜けるのを感じて、ふと、何かに突き動かされて、楽器をつまびく。表現者として演奏をするのではなく、大地や大気、自然、風土の共鳴者・音叉・プリズムになりきる。

 経験や技量、上手く演奏しようとする欲や努力といったものは、音叉・プリズムとしてのピュアな状態を濁らせてしまう、不要なだけでなく邪魔なもの、なんだそうです。

 そういう訳ですから当然、聞き手の存在が不要、ということになります。聞き手に聞いてもらうために演奏している訳ではないのですから。たまたま自分が楽器を奏でさせられている(奏でているのではなく)時に、そこに他人が居合わせているかいないか、だけのこと。どっちでも構わない。ということはすなわち、職業演奏家というものは本来ない。こんなこと、西洋音楽では存在理由そのものが揺るがされますね。

 この地球のあちこちにある、いろんな音楽の在り方。

 では、音楽とは、人間のどこから生まれてきた、人間にとってどんな存在なのでしょうか。


(石丸耕市 音響演出家 www.lunadfuego.com)
 

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