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作品と製品の違い、この放送技術の読者諸兄には今更私が申し上げるまでもない、自明のことでございましょう。

作品は再現のきかない、一期一会のもの。
製品は量産のきく、クオリティが安定した、製作者の如何を問わないもの。
改めてお話するまでもない、当たり前のことですが、以前これにまつわる面白い話を聞いたことがあります。

その方々は、とある大手メーカーの、プロ用フルデジタル調整卓の開発チームの方々だったのですが、調整卓の今後の進歩の方向性について話し合っていたときです。

大昔のような、一台の調整卓で録音にもSRにもお芝居にも放送にも使えたような、そういう時代ではなく、どんどんジャンルは細分化され、それぞれからの要求は先鋭化している。
そうした時に、劇場で求められる調整卓と、放送局で求められる調整卓とでは、見事にベクトルの向きが正反対の方向をさしている、と。

それはどういうものかと伺いましたら、劇場用の調整卓と放送局の調整卓の求められる方向性の違いは、単にライヴであるのか収録&送出であるのかという違いだけでは到底語りきれるものではない、とのこと。

つまり劇場の音響調整卓に求められているものは、画家にとっての絵筆やパレットを作るようなものである、という訳です。使い勝手、使い心地、いかに操作に煩わされずに舞台に専念できるか。
そこには、オペレータという人間が、紛れもなく一人一人の顔、個性、キャラクターを持ち、舞台という一期一会の世界の中で、オペレートという自己表現を行うという訳です。私自身、オペレータは「音に芝居をさせる、若しくは音を通じて自分が出ずっぱりで芝居をしているんだ」と言われて育ちました。代替はききませんし、得手不得手、出演者との相性の善し悪しもあります。
これがまさに、作品を作る世界です。

それに対し放送用の調整卓は、誰が操作をしても、例えばキャリア20年のベテランが操作をしても、新卒の社員が操作をしても結果に大きな差が出ては困る、という要求だとのこと。
これはこれで劇場の本質とは正反対の立場のところで、とても大事なことだろうと思います。
放送というのは完全にビジネスの世界だそうです。ある放送の世界の創成期をになっていらしたベテランの方が、「民放に限って言えば、すべてのテレビ番組はコマーシャルである」とおっしゃっていましたが、これは確かに真理であり本質でありましょう。クオリティの高い、量産しても品質の安定した製品を送り出し続けるには、必要なスタンスだと思います。

最近、劇場の世界、一期一会の作品を創造する世界に、製品の量産の理論を持ち込もうとする動きが時々見られます。

アミューズメント施設などで行われるイベントやショーなどはそれでいいでしょう。出演者やスタッフが変わっても、毎回毎回いつも同じクオリティ、変わらぬ仕上がりを求められるのですから、ガイドラインを確立させて製品としてのショーのクオリティを安定させて量産する必要があるのはわかります。
劇場でもロングラン公演でその方法を持ち込むことで、公演をビジネスとして安定させ、経費を安く抑えることが可能になります。
しかし、そこに役者の顔は見えません。
スタッフは完全にロボットです。

一人一人の人間の、個性や才能が邂逅して生まれる一瞬の輝き、という舞台の本質は、そこにはありません。
製品としての舞台公演の量産、を否定はしません。
しかし私自身は、その歯車に組み込まれて使い捨ての消耗品にされたくはありません。

私は、音響家という、アーティストでありたいし、い続けたいと思っているからです。

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