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 ミュージカルについては、このエッセイで今までにも何度も触れてきました。ミュージカルには、台詞と歌がハッキリ分かれている形式のものと、昨年12月号でお話したようなポップオペラ形式という、台詞が一切ない、全てを歌で綴っていく、オペラと同じスタイルの形式のものに分けられます。

 よく耳にするのが、「ミュージカルなんて見ててコッぱずかしい」「普通にしゃべればいいのになんで急に踊っちゃったり歌っちゃったりする訳」「嘘臭くて感情移入できない、白ける」というお客様の声。
 いや、実際その通りだと思います。私もやっててそう思うことが多々ありますもん。
 何故そう言われてしまうかといいますと、そこに本来の「ミュージカルの必然」が、失われてしまっているからなんですね。

 台詞で語って語って語り尽くせない感情がふと、歌になって口をついて出る。歌って歌ってそれでも高まる感情に突き上げられるように手が伸びる。足が上がる。リズムをとりだす。そうやって歌って踊って、それでも伝え尽くせない想いが、ポツンと台詞になって出る。
 ミュージカルとはこのように、台詞、歌、踊りが三位一体として有機的に結合する表現方法です。それが「ミュージカルの必然」なのです。

 それが失われてしまっていると、先に述べたお客様の声のように、嘘臭い、段取りのようにハイ台詞ですハイお歌ですハイ踊りの番ですという、カロリーの浪費のような作品が出来上がってしまう訳なんです。

 このエッセイで何度か御紹介させていただいている、脚本家・演出家の福田善之さんの作品は、「真田風雲録」のような青春グラフィティもの、「ピーターパン」のようなファンタジーもの、文化庁芸術祭賞をお取りになった「私の下町」シリーズのような太平洋戦争を扱ったものと、作品の中身で話されることが多いですが、福田作品の最大の凄みは、それがどんな作品であっても「群像劇」として他の追随を許さないクオリティの高さにあります。

 多くの群衆が登場する場面でも、それが台詞のない登場人物であっても、そこにいる必然、動きの必然、その人物それぞれのストーリーがクッキリ描かれています。誰にでも、どんな人にでも人生があり、ドラマがある。
 そういう人物達がその場に居合わせて、それぞれがそれぞれの方向から、一つの感情に向かって緻密に機織りのように収斂されていき、その結果としての感情の発火点が合唱になり群舞になる。だからミュージカルとしての必然が成立し、お客は白けることもなく変だとも思わず歌に感動し、踊りに興奮出来るのです。

 一人一人の人物の、例えその他大勢の人物であっても、ドラマが有機的に結合し織りなしていき、結果として台詞と歌と踊りが有機的に結合している。
 その他大勢の人物を舞台装置のようにしか扱うことの出来ない凡百の演出家達など到底太刀打ちできない福田作品の本来の凄さは、そこにあるのです。

 最近、ふじたあさや先生の「ねこはしる」というミュージカルに携わりました。これは冒頭でお話したポップ・オペラ形式のもので、台詞が一切ない、すべて歌だけで綴られたものです。
 原作は絵本の童話だということでしたが、例えばこれを絵本のまま読んだら5分で読み終えてしまうでしょう。普通のお芝居、ストレートプレイに仕立てても、およそ30分もあれば終わってしまう長さの作品です。
 それをミュージカルに仕立てて休憩なしの90分、冒頭で客の心をからめとり、中盤でわしづかみにし、最後のクライマックスでは誰もが感動に心を奪われる美しい歌詞、メロディー、踊り。
 ものすごい脚色力、構成力、演出力に敬服しました。舞台の世界の人間として、この作品に携わったということが財産になると言える、素晴らしいミュージカルでした。

 これもまた。ミュージカルの必然と言えましょう。

 絵本やストレートプレイではなくミュージカルという表現方法を取ったからこそここまで感動できる作品になったということです。
 とにかく何でもいいからミュージカルをやりたい、ではあまり成功した例を聞きません。ミュージカルという表現方法を選ぶ、その必然があるかないか、という吟味ですね。もちろん、到底誰もが「こりゃミュージカルには出来んだろう」というのを、目を見張るような素晴らしいミュージカルに仕立ててしまう腕ずくの才能、というのはありますが。

 それにしても、福田善之先生、ふじたあさや先生、いずれもこう申し上げては失礼ながら、結構なお年でいらっしゃいます。若手の人気劇団や有名演出家の、入ったらすぐ出口みたいな底の浅い薄っぺらな作品に辟易する中、こういう年齢の演出家の懐の深さ、凄みを見せつけられて、私と、私と共に両先生の作品に携わっている白石安紀は、初日の開いた夜のレストランで、向かい合って揃って腕組みをして、
「う〜ん、じじィ恐るべし」

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