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 私達は、空間の中に生きています。
 私達は、空間の響きの中で音を聞いています。
 厳密に言えば私達の聴いている音は、右も左も上も下も前も後ろもないのでしょう。

 私達の耳が頭の左右についている。そのために、便宜上、今聞いている音が、耳に対してどちらから聞えてきているか、仮に分配しているだけのことです。
 モノラルからステレオになった時代、人々は音の世界の広がりに驚き喜びました。そして、間違っても2台のスピーカを、左右に置くことはあっても前後に置いたり上下に置いたりするような人はいませんでした。
 耳は左右についていて、そしてスピーカはたった2台しかなかったからです。

 さて、現在、5+1サラウンドや2chヴァーチャルなどの立体音響が商品として成立・普及を始めた現在、音を「創る」側の人間にも、自分が空間というものをどれくらい意識しているか、どれくらい意識して仕事をしてきたか、生きてきたか、自分に自分の問いが突きつけられています。いや、それに気付いている「自分は音のプロだ」と名乗る人間がどれくらいいるでしょう。
 日々の仕事に追われ、ルーティンワークに麻痺し、目の前のハードウェアに盲目にされ、自分で知らず知らずに築き上げた概念や常識や観念にがんじがらめになって、「本当はどうあるべきなのか」「どうすればみんなが幸せになるのか」「誰のためにこの音を創っているのか」と常に自分に問いかけるべき問いを忘れてしまっていませんか。

 私達はスピーカから音を出すのが仕事ではないと、言われれば思い出すけど言われるまで忘れて日々の仕事をしてしまってませんか?沈黙は音がない状態ではなく、沈黙という音がそこにあり、音響家の最も重要にして困難な仕事は、沈黙という音を生み出すことだということを。
 そういうところに自分の軸足をしっかりと定めていれば、日々の仕事がルーティンワークには決してなりはしません。その中で、常に浮かび上がってくるはずです。空間という存在が。空間を響かせるということを。自分の中の内なる空間の響き。自分の響きの色が何色であるか。

 あるクラシックのレコーディングエンジニアは言いました。今までの2chステレオの時代、CDでお客さんは問答無用で指揮者の頭の上の音を聴いていた、と。
 それが5+1になって、演奏が行われている空間を意識せざるを得なくなった場合、リスニングポイントを何処に持っていくのか。今まで通りの指揮者の頭の上にリスナーの頭が浮かんでいるような聴かせ方をしていいのか。客席に持っていくのなら、それは何処なのか。そのリスニングポイントから感じる演奏会場全体の響きを自分はどう受け止めているのか。自分に自分の刃が向けられている、と。それに対して誰も明確な答えをまだ持っていない、みんなが模索している、自問自答している最中なのだ、と。

 テレビ番組に携わっているサウンドエンジニアは言いました。2chステレオ放送の時にはあまり気にならなかったが、5+1の放送になってから、劇場中継のクラシックのコンサートで、カメラが指揮者やオーケストラのアップ、そして引いた映像で全体を映したり、カットが変わっても音声が変わらないのはどうなのか。カメラ映像が変わる度に立体の音のリスニングポイントがカメラ位置に合わせて変わったら音楽にならなくなってしまうのは分かってる。じゃカメラ映像が変わっても音が変わらないのを不自然と思われたらどう答えるのか。考えてみたらカメラの映像のカットチェンジは放送の送出側の勝手な演出の押し付けだ。5+1になった途端にものすごく気になるようになったのだが、それに誰もまだ明確な答えを返すことができない。

 そうです。どのジャンルでも、誰もが未だ試行錯誤、誰もが模索をしている段階なんです。新しい世界を古い概念で何とかできると思い込んでいる人には、空間を聴くこと、空間の響きの色を見ることは不可能でしょう。

 そこには、経験も知識も技術も却って邪魔なだけの世界が在ります。必要なのはただ、イマジネーション。そして「想い」です。その感性を持つ者だけが、新しい世界の新しい知識と技術、その蓄積としての経験を作り上げていくでしょう。

 私の傍らにも、それを持った者がいます。
 その才能の一瞬の閃きとの邂逅。
 その一瞬の一期一会のために膨大な時間と情熱を注ぐことを惜しまない、むしろそれをこそ歓びとする人種を、アーティストと呼びます。
 アーティストとは成るものではなく、継続していく過程の行為、あるいはその状態にある人のことを言うのでしょう。
 音は空気の振動であり、人の鼓膜を震わせます。
 しかし、一旦、音響家と名乗るアーティストの手を通った音は、鼓膜を震わせるんじゃありません。
 人の心を、震わせるんです。

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