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 カフェは本来、珈琲と共に新聞と葉巻・煙草を供する場所でした。新聞はカフェへ行って読むものだったのです。人はカフェへただ「珈琲を飲みに行く」のではなく、「珈琲のある時間と空間へ身を置きに」行ったのです。
 珈琲から立ちのぼる湯気と薫り、その中に埋没する心地よさ。地獄のように苦く悪魔のように甘いと言われる、人の心を掴んで離さない飲み物。
 カップを口元へ、飲む前にまず一息、大きく胸の中へ薫りを吸い込んで堪能し、それからそっと、くちづけをするように、心ときめかせながら、一口。
 そうして我が身と我が心を埋没させて、或いは自分と向き合い、或いは深く思考し、或いはその時々の歓びや哀しみや悩みに心を任せ、或いは空想に浸る。
 その中から、イギリスではロイズの保険が誕生し、フランスでは古くはフランス革命が胎動を始め、時代が下がって文学や音楽などあらゆる芸術が萠芽してきました。
 珈琲は文化だったのです、かつては。

 現在、新聞はともかく、煙草が一切ダメという喫茶店が蔓延し、珈琲を愛する者達を嘆かせています。
 それは最早カフェではなく、ただのコーヒーショップだと。いかにもアメリカ人の考えそうな店であると。
 試しにフランスのカフェに入ってご覧なさい。
 まず、珈琲の注文からして、百通り以上あります。
 そしてメニューに、コーヒーの下にアメリカンコーヒー、ココアの下にアメリカンチョコレートと区別して書いてあります。
 つまり、アメリカンコーヒーを「こんなもんコーヒーじゃない」アメリカンチョコレートを「こんなもんココアと呼べん」と区別して隔離している訳です。

 チョコレートもヨーロッパでは珈琲と並ぶ見事な文化を形成しているのですが、アメリカに渡ったチョコレートは、只の子供の菓子に成り下がってしまいました。
 日本も以前は良い喫茶店が街に一つはありましたが、この頃は出されるコーヒーが薄くなる一方で、店内はバカみたいに明るくやかましい、客の回転率ばかり追及した狭いテーブルと座り心地の悪い椅子、マニュアル通りの応対しかできないバイトの店員、もう珈琲と漢字を使いたくない、カタカナのコーヒーばっかりだ、と愛好家の嘆きはとどまるところを知りません。

 全国の読者諸兄を前にローカルな事を申し上げるのは大変恐縮ですが、東京の、東横線学芸大学駅そばの「珈琲美学」、西武池袋線江古田駅の「トレボン」、渋谷東急文化村正面の「セピアの庭」、この三軒は私が知る数少ない、二十年近く愛している、珈琲愛好家にお勧めできる「カフェ」です。

 別に珈琲が目を見張るほど美味しいという訳ではありません。いや、勿論美味しいのですが。
 あまりお店が珈琲の求道者のようになられると、こっちが居ずまいを正さなければならないような気がして居心地が良くないのです。ここで紹介したお店はあくまでも居心地まで含めたトータルな意味での「良いカフェ」です。珈琲が絶品というだけなら他にも有名な名店は沢山ありますし、ここでこういう話をすることで、諸兄のお気に入りのお店を思い出して頂いて想いを馳せて頂きたいというのがこちらの真意です。
 お店の主人と客が馴れ合わないというのが正しいスタンスでしょう。「良さそうな店だな」と入ってみたら、主人がずっと常連さんとしゃべっていたら白けてしまいます。
 互いに分かっていて、何も言わない。
 口をきくのは注文と勘定のときだけ。目線も合わせない。でも通じているのが分かる。感じられる。
 こういう、ちょっと照れ臭い心地よさを、劇作家の別役実氏が、氏の著書の中で「はにかむ」という大人の嗜みの行為として、分解し解説してみせていらっしゃいます。

 この、大の大人がはにかむ、というダンディズムの基本が、「良いカフェ」に必要な要素です。
 そこに音楽が流れている。
 それはジャズだったりクラシックだったりオルゴールだったり、その店の主人がそのカフェの空気の色を音楽で決める訳です。そしてその色の濃さを音量が決める。これが難しい。
 ほんの髪の毛一本ほどの音量の差で、音がうるさすぎて店内の空気が台無しになったり、音が小さすぎて誰もがすぐに我に返ってしまって、珈琲の湯気と薫り、馥郁たる漆黒の味の中に心を埋没出来なくなってしまいます。

 スピーカ選びも結構大変です。あんまりツイータの効きがキツイものではいけないし、音楽が主張しすぎるのも困る。どこから聞こえてくるのか分かってしまうのも、70年代のジャズ喫茶や名曲喫茶でスピーカの名機を競って鳴らしていたのと変わらなくて白けてしまう。音楽を聴かせるのではなく、あくまでも空間を音の色で染めるための音楽とスピーカ。
 さぁてこれが、考えるほど難しく、難しいほどワクワクしてきます。困ったなぁと苦笑いしながら、カップを口元へ、そして一口。くちづけするように。
 嗚呼、美味しい。珈琲の美味しい秋だ。

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