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 リュック一つで世界中を旅して回る旅人がいます。
 言葉の不自由などものともしなければこそでしょうが、どうするんだと訊きますと、「なぁに、世界中どこへ行っても、『お腹すいた』と『愛してる』だけ覚えればいいんだ。お腹すいたお腹すいたと言い続ければ、誰か一人くらいはパンを恵んでくれるし、愛してる愛してるって言い続ければ、誰か一人くらいはベッドに入れてくれるさ。」

 劇場で仕事をしていると、季節はおろか昼夜の区別もつきません。いきおい、季節感を芝居の中に求めてしまいます。11月になると一斉に「錦秋公演」と銘打った、紅葉鮮やかなポスターが並び、ロビーや客席も紅葉で飾られてパッと華やぎます。1月は新春公演、5月は薫風公演、日本人は季節感をとても大事にします。
 けれどもそれらは、現実の生活で失われたものです。秋の山奥で雉の鳴き声を聴いたことがある若者は少ないでしょうし、夏の河原で河鹿の声を聴いたことがある人も殆どいないでしょう。
 今や舞台の上にしか残されていない日本の美しい季節、季節の美しさ。
 言ってみればそれは、失われた美しいものを求めて懐かしむファンタジーの旅の様なものです。

 考えてみれば巡業は旅そのもの。芝居の中の世界も、場面が江戸だったり京都だったり下北半島だったり、あるいはベネツィア、あるいはパリ、あるいはニューヨーク、あるいは失われた幻の大陸。私は今までどれだけの、行ったこともない遥かな地を舞台で旅して来たでしょう。イタリアなんか、「ジュリアス・シーザー」と「オセロー」と「ベニスの商人」と「ロミオとジュリエット」で数えきれない程イタリアの風を吹かし、イタリアの海を波立て、イタリアの夜の帳を歌声で満たして来ました。が、当の私ときたら、イタリアへ行ったことはおろか、上空を通過したことさえないのです。
尽きることのない憧れと満たされることのない喜びが、私を、次の公演へ、次の舞台へ、次の虚構の旅へと駆り立てるのです。

 現在をあいだに挟んで遥かな未来や戻り得ぬ過去へ飛び回り、また現実の物理的な距離を旅という手段で移動し続ける、定点というものが存在しないこの仕事は、はたからみれば正に虚構、空しいと見えるでしょう。ましてや舞台は、終わってみれば一時の夢、形も残りません。一期一会です。写真やビデオに残そうとしても、それは夢の残骸にすぎず、決して本質を保つものではありません。その中でも特に音は、生まれたそばから消えていくさだめです。
それを「だからこそかけがえのないものなのだ」という使い古された言い回しで弁護するのはあまり好きではありません。はかないものははかない。空しいものは空しい。それは事実だし、私自身も空しく、はかなく思うことは多々あります。ただ、そう思っても、平気です。感情の入り込む余地もなく、事実、単なる事実として受け止めています。

 空しい、はかないと思っても平気でいられるようになるまでには、分かってしまったからです。
形に残しておけるものなんてないんだと。
いつまでもずっと取っておいておけるものなんてないんだと。
例えばここに一つの壷があって、これを何十年と残しておけても、それを見る自分がどんどん変化していって、変化した自分にとってその壷は、すでに初めて目にした時の壷ではないんだ、ということです。
仮に建築物でも、何万年も保っておけるものなんてありません。
一切が消えていく。一切が空しい。
舞台は、音は、それをシンボリックに提示しているだけなんです。

 じゃあ、永遠なんてないんでしょうか?
永遠に変らない確かなものって、ないんでしょうか?
永遠は、一瞬の中にあります。
観客が発するテンションが臨界点を迎え、その瞬間に役者が発した気にめがけて、音響と照明が引き金を引いて、ぱぁぁぁ…ん、と全てが弾けた、その瞬間、その空間を共有している者全てが、永遠という世界の空中の庭園に夢のように放たれます。
その瞬間、あぁ、今、永遠の瞬間の空間の中にいるんだ、と身体が実感します。
これを知ってしまったら、空しいということも、はかないということも、人の命に限りがあるということも、ちっとも哀しくも恐くもありません。
だからかけがえのないものだなんて台詞すら陳腐にしおれていきます。
 これが、私が、音で、舞台に携わって、現実にも芝居の中の世界でも旅をし続ける理由なんだと思います。
 そして時々、自分を振り返り整理するために日記をつけます。
 このエッセイが「音話屋ダイアリー」というタイトルなのは、つまり、そういう訳なんです。

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