otowa.gif

 デウス・マキーナ。ものの本によると正確には、
「デウス・エクス・マキーナ」といい、もともとはギリシャ悲劇の言葉で、演劇において話が詰まった時に、思いがけない人物が現われ、それまでのプロセスと関係なしに全てを解決してしまって、事態を強引に終わらせてしまうあり方を言います。

 私は以前このエッセイでも書きましたが、NHKのラジオドラマの脚本家でいらっしゃった西沢実先生に脚本を師事していた時に、宗教と密接していく以前の、そもそもの演劇の発祥が「祝祭としての演劇」であり、そこにギリシャ演劇と日本の古代芸能の共通項を見る事を学ばせていただきました。

 ここからは私の全く独断の私見でありますが、ギリシャ演劇や日本の古典芸能の原点である「祝祭」は農業の収穫を祝い、感謝を捧げる行為であり、「農業」とデウス・マキーナという作劇手法との因果関係には、それが発生し観衆に支持される必然があると考えるのです。

 それを解くキーワードは、「平和」、「Peace」にあると考えます。
 日本語の「平和」、これは日本に限らずアジアの農業に適した地帯に共通することですが、「平和である状態」を指す時に使われます。
「ああ、平和だなぁ」などと言いますね。
 一方、アングロサクソンの言葉から発生した(ギリシャは決してこの中に含まれませんが)「Peace」という言葉は、厳密には「平和であれ」という意味です。
それは祈りでもあり、「平和な状態を作ろう」「平和にしよう」という希望、意思でもあります。
 つまり、平和な状態がノーマルであるという前提と、平和は努力しなければ、勝ち取らなければ手に入れることも維持することも出来ない、平和が通常のノーマルの状態ではないという前提とでは、物事の見方、考え方は天と地ほどの差が出てきます。

 国際社会において、このギャップを念頭にいれて諸外国と対話をしなければいつまでたっても話が噛み合う訳が無い…という話は今回のテーマではないので、こっちへおいといて。
 このデウス・マキーナ。日本の演劇においては、ヒーローものにその特徴と、アメリカ産のヒーローものとの根本的差異を見て取れます。

 日本のヒーローものはまず、何と言っても、歌舞伎十八番のうち「暫」でしょう。
 悪者達が悪行の限りを尽くしている。そこへ唐突に、被害に遭っている人達とは縁もゆかりもない鎌倉権五郎景政が「暫く暫く」と言いながら出てきては、ポンポンと悪者達の首を刎ねて、おしまい。
 これだけ。
 農業社会において作物が順調に育ち収穫できるのがノーマルであり平和でありますから「平和を乱す」ものは自然災害であり他方からの侵略など、「外部から来るもの」であります。当然、平和がノーマルという観念であれば、平和を勝ち取るための武装や防衛など基本設定にある訳が無く、従って救いをも外部に求めてしまいます。

 その最も端的なものが、日本のヒーローとしてはあまりにも日本らしさの溢れた「ウルトラマン」でしょう。
 「大魔神」や「月光仮面」もまた同じだと言えます。 従って、日本のヒーローの特徴は、ヒーローもまた悪人や怪獣と同じく「外部から訪れる者」である以上、当事者以外の傍から見れば、悪人や怪獣と同じく、化け物や異形の者にしか見えない、ということです。

 そしてもう一つの大きな特徴。
 鎌倉権五郎景政もウルトラマンも大魔神も月光仮面も、「決して自ら正義を語らない」という点です。

 ここがアメリカ産ヒーロー、自ら朗々と正義を説きながら暴力の限りをつくすヒーローと日本産ヒーローとの決定的な違いと言えましょう。
 上記の4つのヒーローの内、最も雄弁な月光仮面の台詞がそれを証明しています。
「誰だ!?」と問われて「誰でもない!」と答えるヒーローなど、世界中どこを探しても日本のヒーローだけでしょう。アメリカ産ヒーローなら大見得切って名乗っちゃいます。
 そして「正義の味方」と言います。自分が正義そのものだとは言わないし、自ら正義を説きもしません。
 正義は既に人々の心にある。ヒーローはその味方をするだけ。既にある人々の心の中の正義を脅かす脅威を取り除けば、ヒーローは何も語らずに去っていく。 外部から来て、外部へ去る。あとには、ノーマルな状態に戻った平和がそこにあり、平和と正義は、人々の心の中に既にある。

 これが日本列島のある東アジア農作地帯から生まれた、祝祭を発祥とする演劇の、デウス・マキーナ的ヒーローの必然なのでしょう。

 ならば、と、先日、効果音制作作業の休憩中に、仲間達と、ウルトラマンのビデオを音声を消して見ながら、登場のシーンに「越天楽」を流してみたり、闘いのシーンに大江戸助六太鼓の乱打を流してみたりして遊んでみました。
 うおぉ、カッコイイ。

backback
OTOWAYA home