オペラ「魔笛」ハラホレ奮闘記


え〜、今回のレポートには写真がありません。
テキストだけです。なんとも味気なく、つまんないかもしれませんが、
うちの写真担当が現場にデジカメを持ってこなかったんです。
申し訳ありませんが、それでも頑張って書きますので、よろしくお付き合い下さい。

日本ではオペラというと、「舞台芸術の極致」「華麗で豪華」といったイメージを持つようです。
事実、オペラ公演の宣伝はそのように煽りますし、日本ではオペラというと、一般の人には「グランドオペラ」しかないように思われているかも知れません。

これはつまり、日本においていかにオペラが根付いていないかの証であり、またオペラを浸透させようという目的からみると、かえって敷居を高くしてしまっていると言えましょう。
分かりやすい例として、歌舞伎を取り上げてみましょう。

歌舞伎にはグランド歌舞伎とも言える「大歌舞伎」があります。現代で言えば歌舞伎座と国立劇場、京都南座、大阪松竹座などで上演される歌舞伎がこれにあたります。江戸時代では、江戸三座と呼ばれる3つの芝居小屋が江戸での大歌舞伎の劇場です。
これに対し、寺や神社などで勧進を目的にした芝居や祭りの時の芝居、農村で村単位に上演される芝居、これらも皆歌舞伎だった訳ですね。現代でも全国各地に、地元の歌舞伎が残っていて、上演時には大変な賑わいとなります。

参考として、埼玉の奥、秩父での秩父夜祭りの期間中に上演される「秩父屋台歌舞伎」の写真をアップしておきます。これは、道路いっぱいに写真のような豪華な屋台が組まれ、この屋台が舞台となっていて、この上で歌舞伎を上演する訳です。言わば自走式の歌舞伎舞台、という訳ですね。
下手には花道もあって、花道の先の梯子を降りると、駐車場を出演者の出番待ちの場所にしています。
上手側は和菓子屋さんとクリーニング屋さんなのですが、そこの2階を音響室にしてオペをしていました。
出演者は全員普通の社会人の方々で、プロの役者ではありません。
この時の公演では主要な役どころを演じていた方が、マイクロソフト社の関係の方だったようで、歌舞伎の掛け声で「成田屋!」「音羽屋!」と屋号をかけるところで「マイクロソフト!」「インターネットエクスプローラ!」と商品名が叫ばれ、まるっきり商品宣伝になってしまっていて、何とも下品この上なく、多くのお客さんがイヤ〜な顔をしていましたし、Macを愛する私としてはローリングソバットくらわしたろか、という気分でしたが、あら?話がそれましたね。

つまり、演劇とは、太古の昔の「祝祭」としての発生より、「観賞するもの」であると同時に「参加するもの」であった訳で、その両面が揃って初めてそのジャンルの舞台公演は「根付いた」ということができるのです。

職業としての役者・歌手・演奏家が成立できたのは近世以降の話で、中世まではまさしく、「観賞するもの」であり「参加するもの」だったのです。
「演じることの楽しみ」という娯楽・レジャーが「観賞する」娯楽よりも先にあった訳です。
もうここまでくればお分かりでしょう。オペラもまた、「観賞する」だけでなく「参加する」ようになって初めて、日本にもオペラが定着出来たな、と言えるのです。

ヨーロッパでは、日本の大歌舞伎と小芝居の関係のような、「グランド・オペラ」に対していわゆる「チャンバー・オペラ」つまり室内オペラがポピュラーで、プロも上演すればアマチュアや地域劇団が上演したりもする、プロとアマチュアの境界線が曖昧な部分で、それだけに活気があると言えます。

スタジオ劇場・アトリエ劇場の様な200〜300人くらいを収容する小さな劇場で、舞台は黒幕に椅子や机やベッドなどのちょっとしたものだけで大道具はなし、演奏はアップライトピアノに弦楽四重奏くらいの小編成、衣装も演出を現代風にアレンジすることで自分たちの自前で賄ってしまいます。「フィガロの結婚」をダブルのスーツ、ワンピース、オーバーオールで演じてしまう、なんてこともあります。
このような、プロではない団体が上演する「チャンバー・オペラ」が日本にもある、しかも19世紀のスター・ウォーズとも呼べる荒唐無稽のアクションバイオレンスアドベンチャードタバタオペラ、「魔笛」を、全曲通しでやる、というのですから、こりゃもう「のった!」と返事するしかないでしょう。

やっと日本でもオペラがここまで来たか、という気がします。
99年5月28日、演出は勝田友彰先生、指揮は松井雅司先生で上演いたしました。
ちなみに、オペラの上演の際、このような、プロではない人達の公演の場合については、日本語に翻訳された歌詞を使って、日本語で歌って上演するというほうが良いように感じました。

プロのオペラを鑑賞する場合、オリジナルを尊重する意味でも、また少しでも作品の本質に近づくためにも、原語での上演が適当であると今でも思っていますが、「参加し、上演することを楽しむ」場合、原語にこだわってしまうと、楽しむために越えねばならないハードルが高すぎてしまって、根付きにくいのではないでしょうか。

今回の公演は、出演者皆さんが、職業を持っていらっしゃったり、主婦の方だったりという顔ぶれです。
日頃お忙しい中を時間をやりくりして練習なさっていて、公演を成立させる全てが「情熱」のみで支えられています。本当に素晴らしいことです。
タミーノ役の方は東京消防庁の消防士さんです。ザラストロ役は高校の先生。
普段、誇りと責任を持ってお仕事に従事され、尚且つ豊かな時間と人生を得るためにオペラのレッスンを受け、自分たちの手で公演を行う。ここに、うまいの下手だのという話は本当にナンセンスで、実際、この方達は、実にいい味わいのタミーノやザラストロをなさるのです。

1幕冒頭、轟く雷鳴の中、勇ましく大蛇と格闘しながらも歌詞の上では「誰〜か、誰〜か、早〜く助けて!」と客席へ向かって泣きを入れて見せる(!?)タミーノは、消防服のヘルメットをかぶって出てきて放水して欲しかったなぁ。

理性と分別の象徴のようなザラストロの登場では、さすが現役の高校の理系の先生、朝礼の時間を思い出してこちらも稽古場で思わず居ずまいを正してしまいます。
パパゲーノなんか、絶望して首を吊ろうとしてみせるところは笑いを誘いながらも明らかに観客の共感を掴んだ手応えを客席の反応に感じ、それがある故にそのあとのパパゲーナが登場しての「パパパの二重唱」は、客席の「幸せが舞い込んできてよかったねぇパパゲーノ」という気持ちをしっかりと引きだし、舞台と客席が一体となる瞬間が確かにありました。

これを見ていると、一体、「巧くやろう」「上手にやろう」「芸術をやってるんだ」「もっと高いレベルを目指そう」という活動は、なんなのかと思ってしまいますね。

こういう方達が、稽古場では私達を「舞台公演のプロ」として実に丁寧に接して下さるのですが、一個の人間としてみれば、私には火災現場で火の海に飛び込む勇気も体力もありませんし、高校で理系の授業を受け持てるオツムもありません。
自分たちが趣味として活動しているオペラの、舞台の世界においてのプロということで尊重しては下さいますが、そこを勘違いして「あんたらは素人、俺はプロ」とアマチュア公演をハナからナメた態度で望む同業者は言語道断ですな。人間対人間として向き合うべきでしょう。

いつも申し上げるように、人間が、人間と、人間を楽しませたり人間を感動させたりするのですから。
創る側の人間同士が、お互いに人間として存在し人間として認めあわなくて、どうして人間を感動させることが出来ましょうか。

このレポートは99年6月のアップで、不定期に追加・修正を行うことがあります。

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